ヴァルアス・ヴォルフガング編
                  第八話



自分が一人きりだという事実に気付いたのはある日のことだった。
ううん、気付いたっていうのは正確じゃない。
認めたくなかったことを正面から認めざるを得なくなったってだけのこと。
自分がどんなに意地を張って強がって本当は寂しがっていたのかを、そしていつの間にか
一人ぼっちだったってことがようやくわかった。
それを自覚したら何か急に空しくなって何もかもが嫌になって自分さえもが嫌になってしまった。
だから、私は飛び出したの。危険だとわかっている時間に危険だと聞かされていた場所、
幻影の森と呼ばれる場所へ。



                         *

月の光に頼るだけの明るさと静寂の空間はより一人きりだと言うことを浮かび上がらせていた。
この森へと足を進めてからもうかなりの時間が経っている。
何もかもどうでもいいと思ってここへきたはずなのに体の疲れは自然と休息を求めていて、
は欲求に逆らわず足の崩れるままその場へと座り込んだ。

全てを忘れて何もかもをやり直せたら。

そんなどうしようもないことだけが頭の片隅に残ってしまい
頭を振って身体から力を抜いて意識をその場から離そうとしてもどうにもうまくいかない。
だけど深い闇は心さえも引き込むように負の方向へと意識を向かわせてしまう。
何が現実で何が非現実なのか、何が本当で何が違うのかそれすらもわからない。
そんな混乱しかけたの目の前にそれは突如として現れたのだった。



                        * 

血のような赤い瞳と漆黒の体。身体は辺りと溶け込み赤く輝く瞳だけがを強く捉えている。
あんなにもこの世界から逃げたがっていたのにいざこうして自分の身に危険が迫ると体が震えて止まらない。
本当にどうなってもいいのなら何の感情も沸いてこないはずなのに自分の本心がこんなにも表面的で
わがままなものだったなんて。

「本当に私ってなにもわかっていなかったんだ」

自嘲気味に呟く。こんな中途半端な気持でいるなら今自分の命が消えたとしても、
仕方がないのかもしれない。今まで抱いていた以上の虚脱感と喪失感が身体の中を駆け巡る。
だが、自分の身に現実として迫った危険のおかげで不思議と自分を少し受け入れられた気がした。
来るなら来いって感じで変に開き直ったのかもしれない。
しかし、さすがに自分が傷つけられるところを見ているまでの余裕はない。
これから起こる瞬間のためにゆっくりと目を閉じる。
近づいてきた気配が身体の回りの空気をフワリと動かしたが、予想と反して覚悟していた痛みは
一向に訪れない。緊張に耐え切れず目を開けようとしたその時、強張っていたの体と心を溶かすように、
暖かなぬくもりが隣へと擦り寄ってきたのだった。



                        *

「ありがとう、大丈夫よ。泣かない。もう泣いたりしないから」

ピタリとくっついて離れないぬくもりがを慰めるように頬をゆっくりとなめている。
あんなにも恐ろしいと感じた赤い瞳がずっと見つめているのにこんなにも自然でいられて
しかも愛しいと感じることが不思議だった。
ギリギリの覚悟があったからの中が空っぽになってしまったのかもしれない。
自分のそのままを受け止めて逆に生きるという大切なものを教わった気がする。
でも、切羽詰った時にこそ本当の気持ちがわかるのかもしれない。

「そうね。結局、私は逃げることしか考えていなかったのだから、こんな覚悟じゃ迷って
 疲れるくらいが限度かもね」

黒い獣をギュッと抱きしめると勢いをつけて立ち上がる。

「あ〜あ、なんか馬鹿みたい……でもすっきりしちゃった」

あれだけ悩んだのに気がついたのはとてもシンプルなことだった。

まだいろいろと楽しんで死んでしまいたくない。もっと自分に素直になりたい。
そんな簡単なこと。簡単だけど認めることは難しいこと。

「なに?案内してくれるの?」

の心の決着がわかったのか、隣のぬくもりが消えていつの間にか先導するように振り向きながら
少しずつ歩き始める。

「おまえがいてくれてよかった」

前を進む獣の後に続きながら感謝をこめて微笑んだ。
迷っただけだったら何も振り切れていなかった。このまま自己嫌悪に陥ったままの自分に嫌気がさして、
自分だけでなく回りも巻き込んでもっとひどいことに陥っていたのかもしれない。

「また会うことができたらおまえの願い事をかなえたいわ」

もしも再び会うことができたのなら気持ちをこめて願いをかなえたい。



                     *

鳥達が朝の光を浴びて一斉に声を奏で出す。高く賑やかな囀りを聞きながらは瞳をゆっくり開けた。

「ゆ……め」

部屋に差し込む朝の光に眩しげに目を細めながらポツリと呟く。
三年前、まだ自分を許せず、毎日をどう過ごしていいかわからないくらいに迷い何も見いだせなかった頃の夢だった。

「久しぶりだ、今頃こんな夢を見るなんて」

あのことがあってから自分は変わったはずだ。
そのおかげで自分が少しは好きになれた気がするのに。

「どうしてまたあの夢を?」

「あの夢って、何の?」

その時、独り言に答えるように背後から聞こえるはずのない声が聞こえてきたのだった。

「ヴァ、ヴァルアス。な、なんで、ここにいるのっ!」

「なんでって、おまえを迎えにきたに決まってるだろ?

「だって、この部屋鍵がかかってるのに!それに無断で朝から部屋に入るなんて!」

慌てまくって必死に言い募るの言葉もなんのその。
半分パニック状態に陥っているを気にすることなく傍までやってくると、顎に手をかけクイッと自分と顔が
合わさるように無理やり正面に向けた。

「な、な、な、な、な」

「今日から街の巡回に回るんだ。初めてのことだろう?だから緊張してるんじゃないかって迎えにきたんだ。
 起きている様子がなかったから遅刻するとまずいと思ってな」

「呼びに来てくれたのはありがたいけど勝手に鍵を使って入ってくるのは駄目よ!それに……聞いた?」

「何を?」

「だから私の独り言、聞いたの?」

変なことは言っていないつもりだけど、もしかしたら夢の中での言葉を無意識に出していた可能性はある。
たとえヴァルアスにでも自分の弱音なんて聞かれたくない。

「ん?何も聞いてないぜ。あ、そうそう。一つ言ってたことがあるか」

「なんてっ?!」

「聞きたい?」

「聞きたい」

「どうしても?」

「どうしてもっ!いいから教えてよ!」

「じゃ言うからしっかり聞いてろよ。おまえはな、俺の傍からずっと離れたくないって言ってたんだよ」

顎にかかった手を必死に外そうとしていたの手が力なくベッドの上へと下ろされた音が、
一瞬静まり返った部屋の中で大きく響く。

「だ……」

「だ?」

呟かれた声を聞き取るためにヴァルアスがへと顔を更に近づける。

「絶対そんなこと言ってないっ!」

耳元で大声で叫ばれたヴァルアスはその大きさに耳が響いているのか、顔を顰めひどいと責め立てる。

だけどひどいのはどっち?いつも私をからかうだけからかって!

「ヴァルアスの馬鹿!」

「怒った顔もかわいいな」

堪えた様子もなく嬉しそうに言葉を返すヴァルアスには照れ隠し半分で思い切り枕を投げつけたのだった。



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