ヴァルアス・ヴォルフガング編
第十九話
胸が痛い。この締めしめつけるような痛みそして不安。
ヴァルアスは夕闇をの元へと急ぐ。
銀朱月の時期は身体能力が格段に上がり、普段にはない程の速さで道を進むことができるというのに、
それすらもどかしくて焦りは増すばかりだった。
「やっぱり離れるんじゃなかったっ」
後悔が胸の痛みを強くする。
後悔だけでなく、自分が感じる痛みがの受けているであろう痛みとも重なっているのだとどこかわかっていた。
そしてその逆もあり得ることも。
サーシェスの所に行かなければこんなことには、と思うが実際にそんなことはできない自分に嫌悪さえ感じる。
自分達に課せられた鎖。
見えない鎖にがんじがらめにされた自分はサーシェスの命を断わることさえできないのだ。
見えない繋がりが人を繋ぎ、そしてその行く末をも支配しかねない。
異質なものだと一族から弾かれ、自分の居場所を見つけることができなかった頃は自分を守ることに精一杯だった。
そんな時に官吏の仕事を任されるようになり警備隊に所属し警備隊の一員として働くようになってからはほんの
少しだけだが人の中に入っていけるようになった。
警備隊の仲間は自分を受け入れ、理解をしてくれているとは思う。
だがそれはあくまで人間としての自分だけだ。
もう一つの姿を知らない、打ち明けることのできない自分にとっては完全に心を許すことができたとは言えなかった。
でもは違う。たった一回、短い出会いの中だったのに自分の心を感じ取ってくれた。
自分のもう一つの姿を知った時でもきっと恐かったに違いないのに決して自分から逃げないで向き合い、理解してくれた。
もう二度と現れることはないだろう自分だけの特別な人。
そんな特別な存在がいなくなるなんて想像するだけでも苦しくなる。
俺はおまえのためだったら自分の命さえ惜しくない。
おまえを守るためなら何だってできる。だから俺一人を置いて俺の前からいなくならないでくれ。
頼む、……。
*
「おいっ、しっかりしろっ」
「隊長」
扉にもたれるようにして倒れていた部下の意識を覚まさせるとヴァルアスはいつも以上に性急にその肩に掴みかかった。
「……はっ」
「申し訳ありません、隊長。応戦はしたのですが」
散乱した部屋。建物全体に自分の部下達以外の人間の匂いと気配が立ち込めているが部屋の主の姿は
どこにも見当たらない。しかしその中で、かすかにガルヴァローズの気配を感じ取ることができた。
自分の部下達に攫わせたのだろう。自分のガルヴァローズへの対応の遅さがこの事態を招いた。
だが、いくらそのことを悔やんでも刻を戻すことはできない。
「隊長?」
問いかけに黙って立ち上がるとヴァルアスはゆっくりと口を開く。
「おまえは他の奴らの手当てを頼む。それから誰かサーシェスに連絡をしておいてくれ」
「隊長は?」
「俺はを取り戻しに行く」
「無理ですっ!一人でなんて無謀すぎるっ。
いくら隊長が強くても一人で相手をするにはきつすぎます。他の隊に応援を頼みましょうっ」
「奴らの目的は俺だ。俺一人だったらそんな大勢で待ち構えたりもしないだろう。
それに私情とも言えることに他の隊まで巻き添えにさせられはしないさ。
俺は大丈夫だ。その代わりサーシェスへの連絡だけは頼んだぞ」
「まっ……」
引き止める間もなく、ヴァルアスの体は窓から裏庭へと躍り出る。後ろからかかる声を無視して、
そのまま裏庭から続く森へと移動した。
駆け抜ける中、森から差し込む光は木々に遮られ、ほのかにしか感じ取ることができない。
しばらく走った後、ヴァルアスはぽっかりと空いた空間で足を止めると空をゆっくりと見上げる。
星がまたたく空には朱く光を放つ銀朱月が姿を現していた。
「うっ」
苦しそうに顔を歪めるがその瞳は銀朱月から離れることはない。やがて瞳が同じ色に染まるように赤い色へと
変わって行く。
「あぁっ」
耳がピンと尖り、苦しさのあまり胸の辺りの服を強く掴んだ手の平が次第に鋭い爪を供えた手に変わると、
徐々に全身の骨が音を立てながら形を変え、その体を漆黒の長い毛が覆っていった。
「ふぅっ」
完全に変身を終えたヴァルアスは一度大きく身震いをすると血のように染まった赤い瞳で再び空を見上げた。
「銀朱の月は呪われた月。俺には今まで苦しめられた記憶しかなかった。
だが今回だけは感謝を捧げる。人間にはない能力のおかげで俺はの元へと駆けつけることができる。
戦い、守ることができる。だから今だけは」
銀朱の月よ、俺に味方を。
森を移動する一つの影。夜の闇にも溶ける黒い影が銀朱の月に見守られ、ガルヴァローズの館へと急ぐのだった。
*
突然の乱入者に身を守る暇もなく気を失わされ、警戒していた相手の元へと連れてこられたこの状況に
は思いっきりパニックになっていた。
絶対に自分はヴァルアスに迷惑をかけないと決めていただけに余計自分の不甲斐なさに腹が立つ。
自分を守ってくれていた隊の皆の状況も気になるし、とにかく早くここから抜け出さなくてはと思えば思うほど
どうしていいかわからなくなってしまった。
だが今なら部屋の中に誰もいない。まずは落ち着いてここから逃げ出す算段をしなくてはと冷静になるよう必死で
自分に言い聞かせる。
扉の前には見張りがおり、外にも何人か配置されているだろう。
しかし館の周りには深い森が続いている。館の中でさえ見つからなければ人の目を縫って移動するのも
できないことではないだろう。運のいいことにこの部屋には二階でもバルコニーが続いているから、
紐になるようなものを作ってつたえば降りれないことはない。
ずっと精神的に虐げられてきたヴァルアスを自分の為にこれ以上苦しまない為にも一刻も早くと
紐にできそうなベッドシーツを引き裂こうとした手に取った時、かすかに窓が音をたてた。
「……っ!」
とっさに両手で口をおさえて出そうになった声を押し殺す。
月明かりに照らされ、窓の外に黒い影が浮かび上がる。は急いで窓に近づくと扉を開いた。
「ヴァルアス!」
そこに静かに佇む影は狼となったヴァルアスだった。
*
「!大丈夫か?どこか痛いところは?何もされなかったか?」
「ヴァルアスッ」
思わずその体に抱きつく。強がりを言っていてもやっぱり本当は恐かった気持ちが行動に出てしまった。
抑えていた様々な感情が抱きついたヴァルアスの体に震えとなって伝わっている。
「」
抱きつかれたまま、ヴァルアスはの顔に自分の顔を合わせるとそっと優しく頬を舐めてくれた。
「大丈夫だ。もう何も心配することはない。俺がいる。俺がおまえを必ず守るから」
荒立っていた心臓が優しい声に導かれるように徐々に落ち着きを取り戻してくる。
大丈夫。ヴァルアスが傍にいてくれれば私は何をするのも恐くはない!
もう大丈夫とヴァルアスを抱いていた手にキュッと力を込めるとヴァルアスを促して立ち上がった。
「ごめんね。もう落ち着いたから」
自分でも不思議だがヴァルアスの傍にいると心が落ち着いてくる。
そんなをヴァルアスはしばらく見つめていたが、信じたのかゆっくりと声をかけた。
「逃げよう。今だったらガルヴァローズも傍にいない。わざわざ争う必要もないから」
互いに頷きあうとこの部屋から脱出すべく窓へと向かう。だがそんな二人の思惑とは裏腹に声がかかったのは
その時だった。
「どこへ行くつもりだ」
気配もなく災厄のもとガルヴァローズが怒りもあらわに二人の前へと現れたのだった。
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