ヴァルアス・ヴォルフガング編
第十五話
てんやわんやの昨日、今までにない程の荒れ狂う感情の渦に翻弄された結果、は知らないうちに
ベッドに倒れこんで熟睡してしまったらしい。
肉体的に訓練以上の走りを強要されたというのもあるが、一度に押し寄せてきた心身への負担が
限界に来ていたせいが大きかったのだと思う。
おかげで久しぶりの休養と呼べる時間を過ごしたせいか、昨日のことが遙か遠くに感じられしまう。
だがこうして徐々に頭が覚めてくるとなんとなくヴァルアスに会うのは気まずい気がしてきた。
もちろん気まずいと言ってもヴァルアスの本当の姿を知ったからではなく、お互いの気持ちが一緒であった
ことが信じ切れなくてまだ実感がわかないからだった。
それでも今日から通常の仕事に戻るのだから昨日までのことは頭の片隅に追いやって、気持ちを
切り替えなければと無理やり考えていたことを断ち切って起き上がろうとしたら自分の体が何かに
邪魔をされたように動かせない事実に気がついた。
…………?
まだ少しボーッとしていたは、次の瞬間、一瞬で意識を覚醒することになってしまった。
体は縫いつけられたようにベッドの上で動かず、瞳は見開かれたまま視線を他に逸らすことができない。
「な、なんで、ヴァルアスがっ!」
入れるはずもない部屋の中にヴァルアスがいるだけでなく、これまで以上の至近距離に端正な顔があり、
背中と腰にまわされた両手が身動きが取れないほどの密着度で力を込めている。
せっかく整頓できたはずのの頭の中は再びぐるぐる回り始めてしまった。
「んぅ〜、……?」
の身じろぎに気付いたのか、ヴァルアスが寝ぼけたような声を出しながらまるで確認するかのように抱き締めなおした。
「ヴァルアスッ!あなたがなんでその……私のベッドにいるのっ」
「なんでってが俺を離してくれないから」
うそっ!そんなこはずないっ!
記憶はないけれど、自分からヴァルアスを求めるだなんてそんなこと!
うろたえながらおぼろげな記憶をたどっているの様子をしばらく眺めていたヴァルアスは小さく笑うと
右手を頭の後ろへと移動させた。
「ふっ」
自然とヴァルアスを仰ぎ見る形になったの唇にヴァルアスの唇が押しつけられた。
唇が離れないように両手に力を入れて。
「……っ」
なんとか必死に抵抗しようとしてもヴァルアスは更に離すまいと熱いキスを送る。
身体中の熱が唇に集まるかのような感覚。
何もかもを忘れてしまいそうな感覚に酔わされ、震えが走る。
体中から力が抜けていく。自分の全てをヴァルアスに委ねるように。
のそんな様子に満足をしたのか、ヴァルアスはゆっくり唇を離した。
「」
唇は離れても艶めいた表情と声がを捕らえて離さない。
まるで魔法にでもかけられたかのようにその大きな胸にしっかりと抱きしめられ、
いつまでもヴァルアスへの余韻で満たされていたのだった。
*
人々が行き交う中、は怒鳴りあいに近い程の言い争いをヴァルアスと繰り広げていた。
「ヴァルアスの馬鹿!もう知らないっ」
「なんでそうなるんだよ。、いいかげん落ち着けってば」
「落ち着ける訳ないでしょう!誰のせいだと思ってるわけ?」
「俺のせいだって言うのか?だっていいって言っただろう?」
「私がいつ?それに相手の同意を得なくちゃ駄目じゃない!」
「同意は得てるぜ。それにお互いが納得していればいいじゃないか」
「だからなんでそうなるの!最低限のマナーの問題でしょう。
私はそう言う事はきちんとしたいから言ってるだけ!」
「ふ〜ん、わかった。ようは、恥ずかしいんだ。照れてるんだ?なんだ。今更恥ずかしがることないのに」
「ち、違うわよ!私は最低限のことは守って欲しいから言っているんであって……」
「いいから、いいから。わかってるって。そんなも俺は好きだよ」
ヴァルアスは嬉しそうに笑うとすばやくの頬にキスをした。
「ヴァルアスッ!ここっ、道の真ん中っ。み、みんなが」
「見てないって、みんな自分の事で一生懸命だから。それに見たとしても見ない振りしてくれるから」
「見ない振りしてるからいいってもんじゃないでしょ!」
「まあまあ。それより早く行かないとまたサーシェス怒らすぜ?だってグチグチ言われるの嫌だろう?」
「まあ、確かに嫌だけど」
「だったら急ぐ!さあ、行くぞ」
呆れたように一つため息をついたをちらりと見、ごく自然に手を繋ぐと軽い足取りで走り出した。
のスピードに合わせて走るその顔は眩しいくらいに輝いている。その顔に見惚れ自分の顔を
真っ赤に染めるを街の人々は微笑ましく見守っていたのだった。
*
結局、何の説明も朝食を食べる間もなく、ヴァルアスのペースに巻き込まれたまま、は城へと向かっていた。
「今日は朝から何があるの?」
昨日といい、サーシェスにしては前触れもなく急なのは珍しい。
用件の内容も知らないままサーシェスの元へと行くのは少々不安だった。
「昨日の用件か?ったく、あいつあれだけだったら別に来なくたって良かったものを。
そのせいでが危険な目にあったって言うのに全く余計な事をしたもんだよ。
今日もつまらない用だったら文句の一つも言ってやるっ!」
「文句って、ヴァルアスいつも言ってるんじゃないの?」
二人が仕事のことを話している現場はあまり見たことがないが、サーシェスに対して一言二言は言っているような気がする。
「が俺をどう見ているかわかった気がするよ。俺だってそんなんばっかじゃないんだぜ?」
「えっ、そんなつもりじゃないんだけどどうも相手がサーシェスだと何となくそんな気がしちゃって。
私のこと心配して言ってくれているのにごめんなさいっ、それにありがとう!」
「いいよ、まあそう見えても仕方ないしな」
ヴァルアスは少し苦笑いするとの頬に優しく触れた。
「そのかわり」
ヴァルアスの顔が近づいて、の耳にそっと言葉を吹き込む。
ヴァルアスの言葉に赤くなって少しためらっていただがしばらくすると決意したように小さくコクンと頷いた。
それと同時にの腰はヴァルアスの腕にすくい取られ、頬に優しく口付けられる。
「が不安なのはわかるけど俺も不安を抱えているんだ。自分が今こんなに幸せでいいのかって。
本当にが俺といっしょにいてくれるのかって。今まで俺は一人でいることが当たり前だったから。
それに俺は俺のことをまだ話していない。全てを話した後でもは俺の傍から離れないでいてくれるのか、
不安でたまらないんだ」
「うっ、ん」
開きかけたの口をヴァルアスの右手がそっと塞ぐ。
「ごめん。今はまだ話せない。それにおまえの言葉を聞く勇気もない。
そう簡単に決められることじゃないんだ。事によってはの身にも関わることだから。
勝手かもしれないがそれでも俺はおまえを離すこともできないんだ。
今更足掻くのもみっともないかもしれないが俺に少し時間をくれないか」
悲しさを秘めた瞳がの瞳を覗き込む。悲壮とまでも取れる決意がの心を揺らした。
心を映し出したその瞳を見つめ、は自然とヴァルアスへと腕を伸ばす。
自分でも抑えきれないほどの気持ちは全身を嵐が通り抜けて行くような優しくそして激しい感情を放ち
はヴァルアスの腕の中に強く抱きしめられると同時に彼を自分からも抱き寄せていたのだった。
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