リュークエルト・ドラグーン編
               第十五話



足音が聞こえる。
聞こえない振りをしても耳をふさいでも身体に響くような音。

逃げることができないのはわかっていた。
もしかしたらいつその時がくるのかさえわかっていたのかもしれない。

銀朱月の時がきたのだ。
魔の月が私たちを迎え入れるためにより赤みを増している。
その光からはもう逃れることができない。
光は常に降り注ぎ、闇は今にも全てを包み込もうとしている。
幕開けの時が来ていた。

光と闇は一対のものなのだから。



                        *

「あの、リュークエルトさま?何か?」

先程からリュークエルトの視線がへと注ぐ。
それもどこか熱のこもった視線で真剣に。

「……ああ、すまない。いつもの君だなと思って」

が思わず赤くなってしまうほどの真っ直ぐな視線。

どうも最近のリュークエルトはおかしい。と言うよりは彼らしくないと言った方がいいだろうか。
根本的なことは変わっていないとは思う。だが今までには見たことのない反応を返してくるのだ。
今みたいに何かを見つけ出すような視線の時もあれば、妙に艶っぽい視線と雰囲気になることもある。

?どうした?」

「いいえ、何でもないです。少しボーッとしてしまったみたい」

はあわてて首を振る。
しかしリュークエルトはそれを不審に思ったのか、の手をとり両手で包み込むようにした。

「疲れているようだね。今日は早めに休むといい。それとも俺がついていようか?一日中君の傍で」

まるで誘いをかけるかのようにの手を引き寄せ、甲に触れるか触れないかの口付けを落とす。

「だ、大丈夫ですっ!あのっ私ちょっと、失礼しますっ!」

無理やりリュークエルトから自分の手を奪い返すとは執務室から逃げ出した。
誰もいない廊下を動揺したまま、バタバタと走り抜ける。
いったいどうしたのか理由は解らないが妙に艶めかしくを誘う様に接してくる。
至近距離からの言葉と仕草に頭がくらくらして何も考えられなくなってしまいそうだ。
どちらにしろこれがいつまでも続くのならの心臓はとてももたない。

とにかく一度落ち着こうと衝撃的な出来事に踊る心臓をなだめすかせ大きく深呼吸をしていたの頭の中に
突然まるで頭を打たれたかのように一つの声が響いてきた。

救いを。誰か私をここから助けてくれ。このままでは私は自分を見失ってしまう。
取り返しがつかなくなる前に早く!

「えっ、なに!誰もいないのに声が聞こえる。助けてくれって誰なの?私にどうしろって?」

声ばかりが頭の中に強く響く。姿は霧がかかったように何も見えず、見えない姿を求めては前へと足を進めようとした。

さん!」

大きな声に一瞬で霧は霧散し声も聞こえなくなった。

「あれ?私……」

踊る心臓を静めようと無理やり大きく息を吸うと自分の現状が見えてくる。
は引きずられるように窓から手を伸ばしイグニスに背後から包みこむ形で腕をつかまれていた。

「どうして私こんなことを」

震えながらも肩から力を抜いたを見てイグニスは大丈夫だろうと息をつくと掴んだままの腕を引き自分に向きなおさせた。

「あなたは、もう。私の目が届いていないときに限って危険なことをするんですから。
 私がいなかったらどうなってたと思ってるんですか?もうすぐで窓から落ちそうだったんですよ!
 本当に……心臓が止まるかと思いました。頼みますから……あまり私を驚かせないで下さい」

「自分でもわからなかったんです」

イグニスの声で初めて自分が何をしていたかがわかった。
何が起こったのか不安なのはもだが手で顔を覆うようにして感情を堪えているイグニスを見たら
言葉が止まってしまった。
苦痛を浮かべ地面をじっと見つめるイグニスには同時にやるせなさと張り詰めた空気が漂わせている。

「……ごめんなさい」

「いいえ、間にあってよかった。ただ何があるかわかりませんからね。私が傍にいればお守りできるのですが
 私がいない時にあなたに何かあったらと思ったらつい」

すみませんと声を荒げてしまったことを詫びるイグニスには慌てて首を振った。

「いいえ、ありがとうございました。イグニスさんが止めて下さらなかったら私はどうなっていたか。
 自分でも全然わからなかったんです。急に頭の中に直接苦しそうな声が聞こえてきてまるで惹かれるように
 身体が勝手に動いてしまったみたい。でもあの声……どこかで聞いたことがあるような気がします」

「声、ですか?」

「はい」

が先程頭の中に響いた内容をイグニスに話すとそのまま考え込むように黙ってしまった。
そしてからそっと視線をそらすと何も言わずに歩き出してしまう。

「イグニスさん!」

真剣に受け止めてくれていたはずなのに答えることなくこの場を立ち去ろうとするイグニスをは慌てて呼びとめると
振り向いたその顔には怖いほど何の表情も浮かんでいなかった。

さん、その声はあなたには聞く必要のないものです。聞いてしまえばあなたは抗うことが出来なくなってしまうかもしれないでしょう。
 いくら聞き逃し辛いことでも考えてはいけませんよ。いくらその気がなくとも時は全てを巻き込むほどに満ちて行くのですから。
 私はあなたに囚われて欲しくないんです。だからあなたはあなたの声にだけ従っていって下さい」

「イグニスさん、何かご存じなんですか?」

「もうすぐ銀朱の月です。銀朱の月は災いをもたらす。特にこのドラグーン家では銀朱の夜は不幸しか運んでこないんです。
 さん、銀朱月の夜は決して出歩かないで下さい。いくら望まなくとも災いは自ずから引き寄せられてしまうんです。
 全てを守りたくとも私にはそれほどまでの力はない。こんな時は疎ましく思わないなんておかしいかもしれませんが」

謎めいた言葉を交えながらイグニスはの心を惑わせたまま立ち去って行った。
イグニスの投げかけた言葉の意味がわからないまま、はイグニスの後姿を見送る形でその場に立ち尽くす。
事態がすでにを巻き込むべき方向へと動き出し始めているほど緊迫していることなこの時誰にも予想はつかなかった。



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