ルティ・フェニキア編
           第九話



カップを置く音だけが静かな室内に響く。
外から差し込む陽の光は鈍く、脱力感さえ漂わせるような空気は気力全てを奪ってしまいそうだ。
は先程から黙ってお茶を飲むルティの顔を気付かれないようにチラチラと下から覗きこんでいた。
その表情は抱え込んだものを吐き出すと言った割には落ち着いて穏やかさえ感じる。

「このお茶はどうだ?」

唐突のルティの言葉に後ろめたさも感じていたの反応は一瞬遅れた。

ここ最近、ルティの周りを取り巻いていた張り詰めた空気が溶け込んでしまっても不思議でないほどの鮮やかなお茶は
神経を解す効果もあるのかもしれない。
さわやかで柔らかい香りがルティにいい影響を及ぼしているのは間違いなかった。

「うん。とってもおいしい。甘酸っぱい味と香りなのにこう……神経を引き締めるって言うのかな。
 身体中がすっきり澄み通って行く感じ」

は感じ取ったままの素直な感想を言ったのだが、その言葉にルティの眉が顰められるのをみて慌てて弁明した。

「あ、あのねっ。私すっぱいものって苦手なんだけどこれは、口の中に味が残っているのに大丈夫なのが
 不思議で、その、えっと、リラックスできるのがいいってことを言いたいだけなのっ」

「それはつまり今まではリラックスできないほど神経が張り詰めていた毎日だった、という意味なのか」

少し皮肉気に言うルティの気分をこれ以上損ねないためにが再び口を開こうとするとかすかな笑い声が
それを遮った。

「冗談だ。おまえがおまえなりに毎日頑張っていたことは認めている。
 まあ、多少要領が悪かったし時間はかかったけどな」

「ルティッ」

諫めながらもの視線はルティから逸らせない。
ルティの笑顔を見ることができるのなら自分がちょっとした犠牲になってもいいと思えるほどに。

、おまえが感じた通りの効能がこのお茶にはある。神経を和らげ、集中力を高める手助けをしてくれるんだ。
 今の僕にはこのお茶の助けが必要だし、彼女を語るにもこのお茶はあった方がいい。
 このお茶の配合は彼女が教えてくれたんだから」

ルティの何気ない言葉。
赤く澄み通った色が心臓の鼓動を高めるのと同じようにの瞳もその言葉にショックを受けて
赤く染まったのだった。



                          *

「彼女の何から話したらいいんだろうな」

ルティの呟く声がの遠くへ飛んだ意識を引き戻す。
自分を落ち着かせるためか、机の上におかれていた香り袋を両手で包み込むようにギュッと握り締めた
ルティの手は細かく震えていた。

そんなに苦しいのなら話さなくてもいい。

言ってしまいそうな言葉をは口を閉じることで我慢した。
自分の心の内に巣食う、嫉妬という名の痛みがお茶の効能さえも凌駕してしまうほどに荒れ狂ってしまっている。
自分の表情が醜く変わるであろうことを必死で耐えながら、事態の進むのを待つしかできない自分にも嫌気が指した。
だが、ルティはそんなの気持ちを感じ取ることなく意を決したように瞳に瞳を合わせると訥々と話をし始めたのだった。



                        *

「今はこうして僕も薬師官として働いているが、あの時の僕は知識がまだ不十分だった」

、おまえも僕の家の事は知っているだろう?というルティの問いかけには小首をかしげた。

由緒あるフェニキア家はこの国に大きな影響をもたらす勢力の一つだ。
先祖から代々王室で働く薬師官。だが、その程度の知識しかない。
そう思って首をかしげたのだが、ルティは少し眉を顰めた後ため息を大きくつくとポツポツと話した。

「フェニキア家は代々薬に関係した仕事に就くことが決まっている。というよりは治療に関した、が正しいだろうな。
 男も女も関係ない。だが、その者が優秀かどうかで一族での地位を決められてしまう。
 僕はそんなフェニキア家が……大嫌いだった」

が向けた視線にルティがフッと自嘲したように笑う。
その茶色の瞳の輝きが暗くよどみを帯びているのを見たくなくて、はルティから顔を背けた。

「そう、あれは今から一年前。僕がまだ知識もなく一族の一員として認められていなかったあの頃
 事件は起きたんだ」

「……事件?」

「そうだ。僕の後悔と罪が重なったあの事件が」



                      *

先程までほんの少し光を差し込ませていた空が夜へと移り変わる時のように闇を運んでくる。
その様子はまるで今のルティの心を現しているのではないかと思えるほどに冷たく寂しさを醸し出していた。

「忘れることのできない記憶」

だが、独り言のように呟くルティの横顔はその空と違ってこれから話す事へ対しての意識の強さが現れている。
そんな空へと瞳を向けた後、ルティは過去へと記憶を馳せた。

「当時の僕はまだ十五歳。能力云々もそうだったが、何より子供としてしか認められていなかった。
 彼女、ルフィアはそんな僕の不満をいつも聞いてくれた。
 もちろん、それだけじゃない。一人の一人前の人間として扱ってもくれたことが僕にとって精神的に
 安定できた要因だったんだと思う」

そこで一端話を切るとを黙って見つめる。
まるでを見つめることで何かを補うように深い色が宿っていたがそのままそれを振り切ると話を続けた。

「だが、どうしたって僕には経験が足りなすぎる。その事実を打ち消したくて彼女の前では格好をつけようとした。
 けれど彼女の瞳は真実を見ていて、そんな僕を、僕の気持ちを彼女はいつも見抜いていたんだ。
 僕を見ていたけれど、手を貸さずに僕を黙って見守ってくれた。温かい微笑みと共に。
 それが僕に肩ひじを張る必要がないと言ってくれているようで無理をしないでいれた。
 だからよりいっそう彼女に認められたくて僕は懸命に頑張った。
 結果それが彼女を不幸へと導くことになってしまうことに気付かずに」

憂いを帯びたルティの視線の先にはルフィアと呼ばれた彼女の笑顔がある。
彼女の笑顔がルティにとってどれだけ大切だったのかを想像するだけでの心は痛みを訴えた。

ルティはの気持ちがわかっていて彼女の話をしているのだろうか。
それとも全然気付いていないのだろうか。
どちらにしても彼女とルティの気持ちはいつも通い合っていたのだ。誰も入り込むすき間がないほどに。



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