ルティ・フェニキア編
第五話
光あふれる世界。この世界は全て光で覆いつくされていると思っていた。
優しさと恵みに溢れた明るい世界。ここだけが自分の居場所だと少しの疑いもなく信じ込んでいた。
それなのにそれは一瞬で消え去った。自分の目の前であまりにもあっけなく。
嘘だと、夢だと自分をごまかそうとした。
だが、それは過酷な現実で無理やりに事実を突きつけられた。
気が狂いそうな程苦しくて心が痛くて。あんな想いはもう二度としたくない。
過去へと戻る意識を懸命に踏みとどまらせる。
深淵へと引きずり込まれそうな深く暗い気持ちを再び味わいたくないのならいま少しでも沸いてきた
心地よいと感じる気持ちなど捨て去ってしまうべきだと無意識にブレーキがかかってしまっている。
そんな気持ちになってはいけない。自分を痛みつけるだけの気持ちなど。
空に浮かぶ魔性の月。月は全てを見ている。
過去の傷を忘れないように、過去の過ちを再び繰り返さないように。
*
「それで?」
いつも慌ただしい城内の中とは思えない程の静かな空間に位置する一つの部屋で
は部屋の主と向き合っていた。
静かな空間というよりはこの部屋の主の為にその辺り一帯が静かに成らざるを得なかったと
言っても過言ではない。
机の上は整理整頓されていながら、いつも書類の山で埋もれている。
覚悟を決めて相談をしにきたに対してもその手を休めることなく、少しの時間も惜しいとばかりに
顔を上げずに対応をしている相手に我慢をしていたもさすがに耐えられなかった。
バンッ!!
机の書類が机に勢いよく叩きつけられた両手のはずみで崩れ、舞い上がった。
「何を怒っている」
「怒らずにいられると思いますか?
私は話に来たんです。忙しいでしょうが少しは聞く態度を見せて下さい!」
無視すらも有り得ると思っていただけに怒りをこらえながらも少しホッとした。
そんなの気持ちを察したのかどうか、サーシェスの以前見た態度からは似ても似つかず、
部屋にあるソファに座るように言うとの言葉を待たずに話しかけてきた。
「おまえの相談とはルティのことだろう」
書類から目を上げ、を見る視線はそこから何かを探ろうとばかりに揺ぎ無かった。
「教えてもらいたいんです」
不安だった気持ちそのままに自然と口調が強くなる。
やっと自分は彼をパートナーとして見始めようと思った矢先のルティからの拒絶の態度。
自分の中に沸いたほんの少しの不安と痛みを押し込んで、彼のことを知ることも大切だからと
勇気を出して聞いたのに!
「」
いつの間に席を立って自分の傍に来たのだろうか。
小刻みに震える手を思いがけなく温かい手が優しく包まれた。
(ルティ)
記憶が蘇える。自分があの絵の事を聞いた時のルティの表情はどんなだっただろう。
自分にあの絵を見られたくなかった。
それは態度だけでもわかったけれど本当にそれだけだっただろうか。
大切だと言う気持ちだけだけじゃない。
「あの女性か?」
「え……」
「部屋にあった絵を見たんだろう?おまえが気になって聞いたのなら、あいつの態度がどうでたかくらいわかる。
そしておまえの気持ちも。だが、私が知っているとしてそれを私の口から聞きたいのか?
それでおまえは自分が納得すると思うのか?」
納得できる訳ない。本人の口からではない情報なんて、感情の混じらない情報なんて
そんなこと信じられないに決まっている!
「最初はこんな口だけ達者な奴が来てどうなるかと思ったが案外うまくやれているようで安心した。
この調子でこれからも頼むとでも言っておこう」
「……一言余分なことを言わないとおさまらないんですね。
でもあなたの言うことも一理ありますからこの場は黙っています」
は重ねられたサーシェスの手をそっとどけると立ち上がる。
来る前にはわだかまっていた不安な気持ちが幾分和らいでいた。
偏見ばかり抱いていたサーシェスに対しても少し見方を変える必要があるのかもしれない。
「また何かあったらいつでも相談に来い」
そう思いながら扉に手をかけると小さな声が背後からかかった。
「失礼します」
きっと書類から目を離さないまま言った言葉にはクスリと笑うと静かに部屋から退出したのだった。
*
「ルティ」
一人窓辺にたたずむルティにはそっと近づいた。
ここ最近ルティを取り巻いていたピリピリした空気が今はずいぶんと和らいでいる。
本当ならどうしたのか理由を聞きたかったが逸る気持ちを抑えて黙って傍に佇む。
その横顔はどこか儚げで消えてしまいそうな雰囲気だった。
「ル……」
「」
が名前を呼ぶのを遮り、逆にの名前を呼ぶ。
視線は変わらず窓の外、淡黄月の浮かぶ空に向けられたままだ。
「明日おまえの予定がないのなら外に出ないか」
「ルティ?」
「おまえが僕と行くのが嫌でないのなら少し気晴らしに外へ出ないかって言ったんだ」
「ルティ?」
初めてだった。
ルティと一緒に仕事を始めて外へ行こうだなんて。何かを誘われること自体初めてだ。
「そんなに僕が誘うとおかしいか」
「違う。違うのっ。あの、誘ってくれるのはうれしいんだけど仕事はいいのかなって。
それに……何かあったの?」
「心配してくれたのか?」
「あの…その……うん」
「心配はいらない。ただの気分転換だ。お互い休みもろくに取っていなかったからな。で、いいのか?」
「うんっ。もちろん」
の返事にルティが見上げていた視線を下ろした。
澄んだ茶色の瞳がまっすぐを貫く。
次の瞬間、の視線がルティから離せなくなった。そこに映るのは無邪気で自然な年相応の微笑み。
「明日を楽しみにしている」
お休みと言う言葉と共に扉が静かに閉められる。
だが、はそれに気付かない程、しばらくその場に立ち尽くしていたのだった。
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