惑わしの森 



ぬかるんだ地面、少しの光さえ差し込まないうっそうとした森の中でリンディは深くため息をついた。
この森の中に入ってからどれくらいの時間がたっただろう。
暗く澱みを帯びた空気はリンディの心までも不安へと引き込んでいった。

「ひっ……」

突然の背中を伝う濡れた感触に思わず声をあげた。
直に入り込んだ冷たさが得体の知れない恐怖感を伴って襲い掛かってくる。

「ちょっ、やだっ。何か入った!」

「吸血虫だな。早く取らないと痕になるぞ。痛いか?痛いようならすでにやられているぞ」

その内容とは逆にのんびりとした声が背後からかかったがリンディには応えている余裕がない。
思うように届かない手で躊躇いながらも懸命に背中を触ろうとした。

「えっ!やだっ!ちょっとノーガ、取ってよ!!」

気持ち悪い、触りたくないと騒ぐリンディにノーガはどこまでも冷静な言葉を返す。

「俺に取れる訳ないだろう。おまえみたいに掴んだりできる手がある訳じゃないんだから」

「何冷静に言ってるのよっ。もうっ」

何とかして取ろうと無茶苦茶に体を揺さぶり落とそうとしたが吸引力があるのか背中から放れる様子はない。
このままだと確実に傷をつけられ、血を吸われてしまうだろう。
リンディは決死の覚悟を決めると一本の木へと近づき吸血虫が張り付く背中を幹へと擦りつけた。

「〜〜〜!ううっ、気持ち悪い感触がっ!」

生理的な嫌悪感が込み上げてきた。
いくら見えないからといって、いや、見えないからこそ感覚がはっきりとわかる。
血を吸われるのも嫌だがこれもいい気分ではない。早く、と願うリンディの思いが通じたのか、
吸血虫がようやく服の隙間から地面へと落ちていった。

「ギリギリだったな」

「だからここはやめようって言ったのよ!」

大事に到らなくて良かったじゃないか、と変わらない口調で言うノーガに無傷ではいられなかった
リンディの怒りが次の瞬間爆発したのだった。


              

「仕方ないだろう。こっちが近道なんだ」

ヒリヒリと痛む背中のせいで幾分かぎこちない歩き方をするリンディに隣を歩くノーガは答えた。

次の目的地に行くには二つのルートがある。
険しい山を越えていくルートとこの惑わしの森と呼ばれる森を抜けていくルート。
目的地に行くのに別段時間を気にする必要はない。だが、これから先まだ道のりは長いのだ。
少しでも体力を温存でき、危険が少なければそちらの方がいいに越したことはない。
もちろん、リンディだって普段ならこの惑わしの森のルートに文句なく賛成しただろう。
噂さえ聞いていなければ。そして、実際にこの森を前にしてその噂を否定できるような要因さえあれば。
少ない経験とはいえ、旅をして鍛えられてきた勘がリンディに訴えた。この森は危険だ、と。
だが、ノーガにはいくらリンディが訴えたところで聞く耳をもたなかった。それどころかどこか上機嫌で早く行こうと促したくらいだ。
そして入って早々に吸血虫に襲われて。
ノーガにとってはそんなこともあるだろう的な見方のようだがリンディにとってはこんなことなければない方がいいに決まっている。

食料不足さえなければ……っ!

現実は問題の山積みなのだと認識させられたのだった。






                      *

リンディが異変に気がついた時、もうすでに事態はかなり悪い状態へと進んでいた。
濃密な空気が辺りに立ち込め、視界はもはや自分の手さえはっきりと見えない程だ。
体の奥底から湧いてくる不安から守るように両手でギュッと自分を抱きしめるようにした後、リンディは慎重に足を踏み出した。

「ノーガ、どこ。ノーガ!」

背後にいたノーガの気配は消えていた。まるで掻き消えたような……

「うそっ!ノーガったら冗談やめてよね」

冗談じゃないことはわかっているが冗談だと思いたいほど心は追い詰められている。
ふと視界を何かが掠めたような気がして前方へと視線を向けると森の木々の間に発生した霧に混じって
影のようなぼんやりとしたものが浮かんでいた。

「いやっ!!」

顔を背け走り出す。リンディの目に映ったもの。
初めは何かの景色のように見えた。だがそこにあったのは過去の忘れたい記憶の抜け殻。

「違うっ!あれは私じゃない。見たくない、見たくない!」

暗くどこまでも重く、木々の間に見えたもの、映ったものはかつての自分の姿だった。


                   *

記憶が蘇える。

何もできなかった自分。何をしても失敗ばかりしていつの間にか人の目を言葉を気にしていた自分。
俯いて背中を丸めて。いつの間にか人と視線を合わせることができなくなっていた。
瞳をあわせた途端、膝から崩れ落ちそうで怖さに震える。
何をやっても駄目だ。うまく行くことなんて何もない。何もできやしない。そう、私は私は……

「リンディ!!」

大きな声に反射的に前へと近づいてきた影から逃れるように後退した。
だが、震える体は言う事を利かず、転びそうになったリンディは慌てて走りよったノーガに足元で支えられていた。

「何をしている。しっかりしろ!あれはおまえじゃない、しっかり見るんだ」

心の震えが身体の震えになっていた。

「でも、ノーガ。あれは確かに私」

「あれはおまえだけどおまえじゃない。
 今ここにいるのは誰だ?リンディ、おまえだろう?リンディ・ハートという現在のおまえ自身。
 ここにいるのが、俺といっしょにいるおまえがリンディだ」

ノーガの強い言葉と視線に朦朧気味になっていた意識が戻ってくる。
視線が合ったと同時にその一瞬で映像に囚われていたものが吹き飛んだ。

出会ってから一緒に旅をしてきてたくさんの苦難を共に越えてきた。
楽しいことやうれしいことも分かち合い、時には喧嘩もして。それでもここまで一緒にやってきた、やってこれた。

「リンディ」

「あ……」

ノーガの視線の先を追い頬に触れると冷たいものが指先を濡らした。

「涙」

静かに流れる涙は冷たいのにどこか温かい。温かくて優しくてそして強い。

「わかっただろう。おまえが過去のおまえより弱いわけがない。
 一つ一つ乗り越えてきた。一日一日を過ごせてきた。だからおまえがおまえに囚われる必要はない」

わかるな、と言うノーガにリンディは頷いた。

「うん、わかりたい」

逃げちゃいけない。逃げたくてたまらないけれど逃げたらきっと永遠に出られなくなってしまうから。

「行くぞ」

過去の自分を見せている幻影をリンディはしっかり見つめるとノーガと共に二人同時にその中へと飛び込んだ。


                     *

「え、あれ。ここって森の外?」

「ああ、そのようだ。あれが森の出口になっていたらしい。ほら、見ろよ」

ノーガの声に後ろを振り向いた。先程まではうっそうとした森の中だったが今は背後に森が歪んで見えている。

「幻影を見せる森。あの森って何なのかしら」

「自分を永らえさせるために養分を取る必要がある。
 あの森は幻影でもって生きているものをおびき寄せ、狂わせていたんだろうな。
 捕食対象のものが力尽き地面に倒れふすまで」

「怖かった。あれじゃあ正気でいるのも、そして生きて戻ることも難しいでしょうね」

「人の心は弱い。だからこそそこをついたんだろう。
 でもおまえはおまえの弱さを認めることができた。だからこそ打ち勝てた」

「またノーガに助けてもらったわ。感謝してる。ありがとう」

「俺達は一緒にいるだろう。一人で駄目でも二人ならわかることだってできることだってある。
 それに打ち勝ったのはおまえ自身の力だ」

「ノーガ」

「そんな顔をするな。楽しく旅を続けたいだろう?うれしい時は笑えばいいし、辛い時こそ笑え」

心に溶け込んでくるノーガの言葉につられるように微笑みが浮かんだ。

嫌なことこそ本当は忘れたままでいたい。
思い出せば辛くもなるし、暗闇の中へといきそのまま戻って来れなくなるかもしれない不安がある。
幻影を見せ人の心を惑わす惑わしの森は本当は一人一人の心の中にこそあるのかもしれない。
それこそ森自体が幻影なのかも。
でも今なら森に入り込んでも抜け出すことが出来る。
一度経験したからってことだけじゃない。判ってくれている存在と自分自身と向き合う気持ちさえ持ち続けていればいつだって。

旅はこれからも続く。自分の歴史を歩み続ける。

それなら辛くても苦しくてもそれでも最後には無理しなくて笑うことができるようになりたい。

自分自身への気持ちを新たにし、リンディは先を行くノーガを小走りで追ったのだった。



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