ある社会人の日常
          4    



ふと我に返るといつの間にか一人部屋の中でボーッとしていた。
何かを考えようとするけれど心の一部が麻痺したようでうまく考えられない。
こんなことわかっていたことなのにやはりショックを受けたようだった。
ショックを受けるだけ自分が損なのだと思うところもあるけれどそんな簡単に割り切れたら
今頃もっと人生意気揚々と送っていただろう。

定時で仕事を無理やり切り上げてすぐ帰るのも誰かに行き会うのは嫌だから、
と逃げ込んだ普段誰も寄り付かない倉庫代わりの部屋。
誰もいない部屋の中で少し心の落ち着きを取り戻した涼香の心は昼間の出来事へと戻っていった。


                     *

噂と言うものはその当事者本人には一番最後に伝わる、と言うことを涼香は知らなかった。
いつも通りに仕事をしていた涼香への同僚のあたりがおかしいと気がついたのはお昼の休憩中のことだった。

「あなたって何もない振りしてやるところではやっているのね」

突然同僚にかけられた言葉の意味に涼香は首をかしげる。

何の意味なのかさっぱりわからない。
何もない振りって私が何かをしているのだろうか?
上司に頼まれた仕事は終えたが他に頼まれたことはないしいったい何のことだろう?
はてなマークを頭にいっぱい浮かべてキョトンとしていた涼香に同僚は苛立ったらしい。
感情を抑えながら穏やかに話しかけようと努力していたようだったが限界点をこえたのか。
机を思いっきり叩くと目を吊り上げて口調も荒々しく言い放った。

「とぼけるのもいいかげんにしなさいよっ!
 あんたが裏に手を回しているのは知っているんだから!
 上司の点数稼ぎして他の人を陥れようとするなんてあんた何様のつもりっ!!」

「裏って……」

「しらを切るつもり?!どこまで卑怯なの!
 あんたがどんな工作しようとももう遅いわよっ。みんなもうすでに知っているんだからね!!」

「あの?」

「いい子ぶるのも正体ばれたらおしまいなんだから!
 せいぜいみんなの視線に耐えられるよう頑張ることねっ!」

涼香に言葉をはさむ隙を与えず、一方的にまくし立てると怒りそのままの態度で立ち去っていった。

いったい何のことなのかわからない。言葉の意味も同僚の怒りの原点も。
わからないから言葉を返すこともできなかった。
ただ、わかるのはどうやら同僚の怒りの矛先は自分へと向いていること。
そして今起こったことは他の同僚も知っているらしいことだった。

「いた……」

胃が痛い。
キリキリ痛むがしかし、まだ午後からの仕事が残っている。
言葉の打撃で痛めつけられた胃を押さえながら涼香は自分の部署へと歩き始めたのだった。


                         *

「どこにも噂好きがいるのはわかっていたことだけどここまで酷いことをするなんてね」

自分の席へと戻った涼香を待っていたのは自分以外の強い視線だった。

表立っては何も言う人はいない。
だが涼香が電話を取る度上司と話をする度、いくつもの視線を背中に感じる。
異様な空気が部屋に立ち込めていた。

「……上司に自分が一番役に立つからって無理やり関連会社の仕事を紹介させたんだって」

「うそ。よくそんなことできるわね。あんな程度の子が役になんて立つの?」

「ほら、そういう所はやたらと受けるでしょ?
 特に年寄り向け。全然かわいくなんてないのに、そういった話運びだけはうまいからさ〜」

「そうよね。とんだ勘違い馬鹿もいいとこ。あれで自分は上に立っているつもりなんだから」

耐え切れずに席を立って戻ってきた涼香が聞いたのは実に覚えのない同僚の馬鹿にしたような言葉の数々。
そして更に痛みが増したのは普段笑顔で一緒にいた同僚の表情だった。



そのあとどうやって残りの時間を乗り切ったのかはっきり覚えていない。
他に考えるのが嫌で仕事に集中した。
それは完全に成功したとは言えなかったけれど、そうするしかなかったから必死になってこの部屋に飛び込んだ。

「私を気にいらない人だっているってわかっていたはずでしょ。
 今更これくらいのことにショックを受けているなんてそんなこと言っていたらこれから先どうするの?
 しっかりしなくちゃだめっ」

自分で言い聞かせるけれどやはりなかなか浮上できなかった。

「言う方は自分の人格を落としているのよ。
 それに誰にでも好かれようなんてそんな都合のいいことなんてある訳ない、
 って言うか自分がどうでも良い人のことで悩むなんて馬鹿らしいじゃない」

同僚達の話を聞いていたら話の発信源は自分へ勝手に敵対心を燃やしている人だった。

その彼女は自分だけでなく、過去にも何度か同じことをやっていると聞いている。

また、こりずにやり始めたということなのか。

「きっと彼女の言い方もうまいと思うけど、それを信じる方も問題があるのかもね。
 それに私のことを良く思っていない人に弁解をしたって信じることはないもの。
 真実を言っても嘘を言っても全て同じ。だって一つのことにしか向いていない思いって何もいれようとしない。
 真実を確かめようとなんて思わずにまるごと信じてしまう、そんな人どうでもいいじゃない」

私の考えは強がりなのかもしれない。
ううん、きっとそうしないと崩れてしまいそうになるからやっぱり強がりなんでしょうね。
それでもきっとそう思い込まれてしまうってことはもともとその人は私のことを好きじゃなかった、
気になる部分があったってことなのだろう。
それなら胸が痛いとしてもそのまま毅然として話を流していつか信じてくれるかもしれないことを思って
私は私らしく今まで通りに過ごしていくしかない。

「こんな経験値いらないんだけどね」

いつまでも落ち込んでなんかいられない。
日々を過ごしていけばいろんなことがある、傷つかずにいられることなんてできやしない。
それなら少しでも楽しく明るく過ごしていきたい。

「よしっ、帰るか」

涼香は一度大きく頭を振ると勢いをつけて立ち上がった。

今日は早く寝よう。
完全に忘れるには時間はかかるだろうけど、ほんの一時でも気分は楽になる。
だから睡眠をたっぷりとって気力と体力をつけてこれからくる出来事に備えていこう。
胸の痛みは残るけれど涼香の瞳に先程までの暗い光はない。
涼香の瞳と足は前へと向いているから。

赤く透き通った空の色と真っ赤に染まった太陽が会社を出た涼香を後押ししているようだった。



next   back   novel