ある社会人の日常
5
何気ない毎日は実は何気なくもなかったりする。
自分以外の人と接することが世間に出るということであればそれこそまだ言葉もろくに喋れない頃から
出ているかもしれないけれど年齢を重ねるにつれて世の中は厳しくなっていると思う。
と言うよりは感じ方や考え方が増えてきたせいもあるのだろう。
まだ何もよく知らない頃は直情的に、本能的に感情の任せるまま行動できていたことが
だんだんと出来なくなってきてしまって自分を抑制してしまう。
そして人と接する場所や人数が格段に変わってきているから不満やいざこざなどの面倒で
嫌と思えることが増えているに違いない。
それは社会人になってから最も思うことだった。
*
「そんなやり方じゃいつまでたっても終らないじゃない」
上司から頼まれた書類の整理をやっていた涼香にかかったのは上から威圧しているともとれる強い声だった。
たまたま通りがかっただけなのか、別段急いでいるようでもない同僚の様子に
涼香は内心しまったと心の中で舌打ちをする。
悪いことをしている訳でもないしサボっている訳でもないのだから堂々としていればいいのに
ついビクッと体が反応してしまう。
そんな涼香を見ていた同僚はいかにも小馬鹿にしたように扱き下ろした。
「余分なことして時間ばっかりかけて無駄ばっかり。言われたことだけやればいいってもんじゃないでしょ。
何も考えないでやるだけなんて仕事サボってんじゃないの?」
いいわよね、上司の覚えのいい人は。
こちらに口を挟む隙を与えず、言いたいことだけ言うとこっちは忙しくってたまらないわよ
と言いながら足早に去っていったのだった。
今更言われなくてもわかっている。
自分でももどかしいくらい要領が悪くて覚えも悪くて。
でも決してさぼっている訳でもないしやる気が無い訳でもない。
ただ、自分の思い描いているように行かないだけ。
焦れば焦るほどできるはずのものもできなくなり、失敗ばかりが目に付いてしまう。
それは自分でもそう思うのだから他人が見れば余計にそう思うだろう。
まだ出来ないのか、何も出来ないのかと言われれば罪悪感が心を締め付ける。
自分は何のとりえもない、どうして何の役にも立つことができないんだろう、って。
まじめにやっていても同じだけやっている人がいれば自分は置いていかれるばかり。
そうとしか思えなかった。
自分で自分を追い詰めていることに気が付かない。
涼香は既に檻に閉じ込められかけていた。劣等感という檻に。
「これ誰がやったの」
嫌でも追い詰められても会社にいる限り自分一人の時間と言うのはあまり取れない。
一人でやる仕事だとしても同じ空間にいれば自然と会話は聞こえてきてしまうもので
聞きたくなくても聞かざるを得なくなってしまう。
私がやったものだ。
それは先程まで自分がやっていた資料のまとめだった。
要領をつかむのに時間がかかってしまって上司に渡したのは先程のこと。
それがなんでもうそこにあるの?
緊張感が心臓を締め付ける。
不安が自分の気持ちを落着かせない。
「これ……よくまとまっているわね」
えっ?
不満ばかりの言葉しか想像していなかった涼香は予想もしていなかった言葉に心の中で動転し
頭はパニック状態になってしまう。今何か仕事を頼まれれば間違いなく失敗どころかその前に手にもつかないだろう。
どうして?私の仕事が褒められてる?
ううん、本当に私がやったものなの?
同僚の顔は満足げだ。
資料が早く手に入ったこともあるだろうけど、本当に見やすいらしい。
誰が資料を作ったなどもうさほど問題でもないようで答えも待たずに今日は早く帰れるわと
うれしそうに呟きながら自分の机へと向かっていった。
「…本当に…?」
いつも一言言われるのに今回は何もないばかりか感謝をされ。
資料を作ったのが涼香ということを知らなかったから、というのもあるかもしれない。
しかし、それでも喜んでくれたのが涼香にとってはうれしかった。
迷惑ばかりかけていた自分が役に立った気がしたから。
「やればできるのかな…?」
ポツンと呟く。
失敗もしてきたけれどその分次にやる時に生かそうと意識してやってきた。
すぐにそれが身についた、形になって表れたことはない。
むしろまた同じ事を繰り返して落ち込むことの方が多かった。
だけど一回でもこうしていつもと違うことが起きたのならうれしい。
心が少し軽くなる。
自分ばかりを責めて周りを見ることができなかった。
そのことは駄目だとしても他のことをやればきちんとやれていたのかもしれない。
一つ駄目だから、と言われたことで苦しくて目を瞑ることしかできなかった。
だけどこうしてほんの少しでもきっかけがあればそこから自分を見つめ直すことができる。
たとえ時間はかかってもできるように努力をすれば、繰り返せばいずれできるようになる、
それでいいのだと思えてくる。
自分一人の事じゃない。
会社、社会という組織の中にいればそんな考え甘い、迷惑をかけることになる、
って言われることもあるだろう。
それでも今回のことでいつの間にか自信を言葉で押しつぶされ忘れかけていた自分を
取り戻してもいいのだと言われているような気がした。
「自分は自分のペースでやっていけばいいのよ、ね?」
自分の気持ちがしっかりしていなければ自分が自分でなくなってしまう。
本当はもっとできることがあるのかもしれないのに。
自分を保つこと。
そのことを思い出させてくれた。
「ありがとう」
本人にそんな気はなかったとしてもほんの少しでも自分を見ることができた、
そんな機会を与えてくれた同僚に感謝をする。
昨日より今日、今日より明日。
同じ所に踏み止まらず、たとえ同じ場所にいたとしても心だけはいつもよりちょっとでも先に進もうとする気持ちで。
私は私でいいのだから。
自分を否定してばかりじゃ駄目だから。
自分を見つめる勇気を持つ。
社会に出てからの自分。本当の自分をもっともっと探していくことができるかもしれない。
涼香の毎日はまた今日から始まる。新しい時間と自分を歩みながら。
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