ある社会人の日常
3
開いた口が塞がらない。
頭では理解していた言葉だけど、まさかそれを自分が実体験するとは思ってもいなかった。
実際の感想はああ、本当に自然とそうなってしまっていたんだ、に尽きる。
呆然として気がついたら無意識に口を開けて、まさにポカンという表現が一番似合いそうで。
日常の生活の、しかも職場で仕事中にそんなことになるとは露ほども考えられなかった。
つまり、それほど意外で突然の出来事だったのである。
*
「もうダメ〜。こんなの重くて持ち上がんない〜」
やたらと語尾を延ばした急の言葉に涼香の頭は思考をストップさせた。
いったい突然のこれはどうしたこと?!
目の前で起こっていることが信じられない。
先程まで当然のごとくあった出来事はいったいなんだったんだろう。
自分と一緒に荷物運びを行なっていた同僚は今まで同じ荷物を平気でその両腕に抱えて運んでいたというのに
どうしてこんな言葉が出てきたのか?
「おっ、荷物運びか。大変そうだな」
今までなかった気配にびっくりしたのもあって、思わずバッと振り向いた。
外回りの営業から帰ってきたのか、通りがかった若手の男性社員が足を止めて同僚へと声をかけてきたのだ。
「そうですよ〜、もう本当に大変なんだから。
まだこれだけあるんです〜。もう疲れちゃって〜」
鼻に掛かるような甘ったるい声。
いったいどこからそんな声を出しているんだ、と聞きたいくらい先程まで一緒に話していた時の声とは180度違う。
ああ、恥ずかしい。
聞いているこちらの方が背筋がゾクゾクする。
そんなのに今時引っかかる人がいる訳ない……
「あとこれだけ?そんなにキツいなら手伝ってやるよ」
うそっ、ここにいた。
ちょっと嘘でしょうっと思いながら唖然と呆然を混ぜ合わせた感じのショックで立ち尽くす涼香の前で
繰り広げられる光景。
あれよあれよと見ているうちに彼女の前にあった荷物はすっかり跡形もなく綺麗になっていた。
「ありがとう!やっぱり頼りになるわ〜。さすがよね」
こんなのたいしたことないと言う男性社員の前で同僚がニッコリ笑うとそれが心の一部をくすぐったのか、
男性社員はどこか得意気な表情を浮かべていた。
「じゃあ、あとはよろしく。頑張ってね」
意識が飛んでいた訳ではないのだが、半ば呆けて見ていた涼香に残されたのはあまりにも薄情な言葉のみ。
二人は涼香がそこにいたのも忘れたのかという程の和気藹々といった感じであっさりと立ち去っていった。
茫然自失。
時代錯誤的に近い出来事にあっけに取られ、涼香が我に返ったのは大分時間が経過してからのこと。
異性の前と同性の前では誰しも態度が違うというのはわかるけれどそれでもこれはあまりにもではないだろうか。
しかも、この同僚は普段自分達女性の前では人のやることなすこと文句をつけることで有名だ。
仕事も要領がいいと言うか、いかに自分が楽になれるかに常に重点を置いている。
だから先程のあれがそれといっしょだと言われればそうなのかもしれないがやっぱりあれはそればかりではないと思う。
だってそうならあんなに甘えたような声を出す必要はないだろう。
普段の彼女を知っているから背中がむず痒いったら。
こうして言っているとそれは僻みだという人もいるかもしれない。
認めたくはないけど、それもほんのちょっとは混じっていると認めざるを得ないか。
でもあれはねぇ。
あまりにもあからさまで馬鹿馬鹿しくて……疲れる。
いくら自分の体が疲れようと、大変だろうと人の目から見てああも疲れて呆れる行為だけはしたくない。
一緒にやっていた自分には声もかけられなくて、視線も感じなかったという事に対しての意地も多分にあるとは思うけど!
自分で出来る事は最低限自分でやることにしようと決めている。
本当に貴重な体験だった。
疲れた心身の中で涼香は自分ではできないことをしてくれた同僚にほんの少し感謝をしてため息をつくと
残っている荷物の片づけを再開したのだった。
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