ある社会人の日常
           



コポコポコポコポ。

よしっ、完了!あとはこれを配ったら仕事開始前の準備は大丈夫かな。



涼香の毎朝の恒例行事。
それぞれのカップに注いだお茶をおぼんにのせて配って回る。
おはようございますって挨拶をしながら、まだ来ていない人の机には邪魔にならないかつ
わかりやすい場所にカップを置いて。
別に当番がある訳でもないし、もう新人からは抜け出しているから自分がやる必要はないのかもしれないけど。

でも習慣っていうのはなかなか抜けないもので、自然と身体が勝手に動いてしまう。
もちろん、他の人がやったからってそれはそれで助かるしうれしいのは言うまでもない。
だけど、リズムというか調子がちょっと狂っちゃったり、なんかこう物足りない気持ちがあったりして。
誰に対してでもないけれど、申し訳ない気持ちもわいてきちゃったりする。
結果、毎日の恒例行事みたいになってしまったという。不思議なものだ。

「あら、おはよう。早いのね」

「おはようございます」

始業時間ギリギリに来た彼女は決して乱れることなく、余裕な表情でゆっくりと座ると
当然のようにカップを手に取り、お茶を一口飲んだ。

「……薄いわね」

それに熱すぎるし、と言いながら彼女はカップを机に置く。

物事をはっきり言う所がこんな時にもいかんなく発揮される。
確かに、来客が来た時にまずいお茶を入れるのはどうかと思うが、朝は時間がないし大量の人数分をいれると
どうしてもお茶が薄くなってしまったりする。
熱すぎるのは単に時間がないせいと、温すぎるとそれはそれで一言言う人が多いから。
温いと飲んだ気にならないとか、かえって後々まで気持ちがすっきりしないとか。
彼女の分だけ特別においしくいれるなんてことをするのは涼香としてもご機嫌を取っているみたいで嫌だったし、
なんせ会社側からも経費節減と言われているのだ。
お茶の葉はある程度の人数をいれたら変えて入れなおす方がおいしいことだってわかっているし、
本当なら自分だってまずいものよりおいしい方がいい。
しかし、お茶の葉の減りが早いといろいろと言われたりするのだから状況を判断すると
こうするしかないと思ってやっているのに。

彼女の言葉に涼香の肩はほんの少しピクンと揺れたけれど、周りの視線を背中で跳ね返し
何事もなかったようにおぼんを持ってゆっくりと給湯室へと向かった。
さざめく心を落ち着かせるために自分で呪文を唱えるように言い聞かせの言葉を繰り返しながら。


                *

「……だったら自分で一回ぐらいいれてみせたらっっ」

一人給湯室で吐き捨てるように呟く自分が情けない。
誰もいないのに、誰かに聞かれないように小さい声で呟くしかない自分にも嫌気がさす。
それなのに、自分は行動に出ることさえできないなんて。

他の人に言わせればこれは言い訳になるのかもしれないけれど思えば前に辞めていった先輩の一言が
余計に糸を引いているのかもしれないと思う。

「あなたは新人なんだから先輩よりいつでも先に率先して雑用もやってね」

仕事を始めて最初に教えられたのが、新人は常に皆が嫌がることをやる、だった。
朝は皆なるべく間に合えばいいって出てくる人が多いから特に、と。
どちらにしても、時間に不安な涼香としては早めに会社に着く分には問題ない。
まあ、手持ち無沙汰になることはあったとしても、時間の余裕は気持ちの余裕にも繋がるから
涼香にとってはマイナスにはならなかった。

ただ単純にそれだけの理由なのに、それなのに、だ。

そんな涼香を裏でいい子に見せたいからやっているだの、少しでも点数稼いでおきたいのかだの、
他の人の仕事を張り切って取っちゃってるよね、だのっ。

人が少しも考えつきもしないことをグチャグチャと。

最初は怒り心頭だった涼香も、いろいろと言われるうちに段々馬鹿らしくなってきてしまった。

そもそもどうしてそんな取り方をできるのか不思議だしそれにそんなことをしたくもないという態度を
取っているのは逆に虚勢を張っているようで対抗意識が持てるはずもなく。

大体仕事だけでも疲れるのに、他に体力も気力も精神力も(気力と精神力って微妙に違うと思うの)
回す余裕なんて有りはしないのだ。

まあ、そこで少しでも弱いふりや敵対心を見せたら余計に相手の征服心を煽っちゃうってわかっているから
油断と隙は見せないようにしてるけど。

なんにせよたったそれ位のことでエキサイトできることはすごいと感心ばかり。

それとも、そんなに毎日に不満があって変化が欲しいのか。
変化が欲しいのなら自分のプライベートで勝手にやってくれって言いたいけどね。
それが言えない自分こそが結局は変化を怖がってる。
どこに変化を求めていつに変化をするのか、それともしないのか。
怖いって感じているだけでも十分変化だと思うのは自分に甘すぎるかしら?
毎日のようにほんの少しでも変化なんてあるんだから、少しくらい同じでもいいって思うのも。

他の人がなんと思おうとも、自分に恥じることをやっていなければ多少後ろめたい気持ちになっても
大丈夫、っていつの間にか思うようになったのも本当はあんまり良くないことかもしれないけど。
それでもどれが良いにしても悪いにしてもああやって我慢できなくて吐き出したくなる時はあるんだから
何が正しいのかなんて言えないんじゃない?

それはそれ、これはこれ。
臨機応変、それも毎日を乗り越えていく秘訣だと無理やり自分に言い聞かせて。
言い訳ばっかりがうまくなったけど、これも社会を経験したり、たくさんの人に会ってきたからなんだよね。
変化を望んだとしても、ある程度の道は用意されている訳で。
そこでどんな風に変えていくかは、いろんな要素と最終的には自分の気持ちしだい。
だったら自分の良いように捉えて、人様に迷惑をかけない程度に自分の好きにやっていくのが
一番いい方法じゃないかしら。
こう思うこと自体が臨機応変で言い訳なのかもしれないけれど、私は自分にめげないようにしたい。
だって毎日を乗り越えていくためにも体力、気力は必要だから。

そのためにも 臨機応変 にね!



next   back   novel