ある社会人の日常
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「こんのっ、いいかげんにしろ〜〜〜〜〜〜っ」

時は折にも仕事中。3時を過ぎて5時の終業時刻まであと少しという時間帯。
涼香は誰もいない会社の片隅で思いっきり大きな声で悪態をついていた。
事務所から遠く離れたこの場所ではいくら社内といえど人に聞こえる心配はない。

もちろん涼香とてサボりでここに来ている訳じゃあない。
ちゃんと用事があっての帰り道、人がいないのをこれ幸いと思って少し寄り道をしているだけだ。

だってそうでないとこの胸の内にくすぶる怒りのたけをどこにぶつけたらいいのだろうか!

「ああもうっ。また腹が立ってきたっ」

フツフツと沸いてきた気持ちのぶつける先は……

「ええいっ」

ガッッ!!

倉庫の白いコンクリートの壁。

「〜〜〜〜〜っ、痛〜〜〜〜〜っ!!」

靴の足跡と共に涼香の悲鳴が響きわたった。


              *

職場は毎日が戦場である。

戦場とまで言っては言い過ぎなのかもしれないが、それに近い所とだけは言っても差し支えないだろう。

それは人個人それぞれによってニュアンスが違う。
仕事内容そのものに対してだったり、初めて扱う機器であったり、電話の受け答えに対してだったり。

でも最大の敵は自分以外の人だと思う。
それがお客様だったり、違う会社の人だったり、同じ会社の仕事上のライバルだったり、
どれも当てはまりどれも違うと言えるけれど涼香の最大の敵は

「あんっの、おしゃべりすずめども〜〜〜〜〜っ」

暇を持て余した同僚達だった。


                 *

新しいお店を選ぶ時に何が重要か。

外観、お店のサービスを含めた内容、そしてお値段。
人によって拘る所は違うから他にもたくさんあるんだろうけどその情報をどこで手に入れるんだろう。

雑誌、広告などの目で見る情報もあるけれど最大の情報は口コミであると言える。
口コミって言うのは本当に恐ろしいもので真実だけでなく虚言だとしてもあっという間に人の間を介して伝わってしまう。
しかも女性の口コミほど早いものはない。
いくらそれまで流行っていた店でも、少しでも納得できない所があれば客の口からそれが伝わって人の出入りがパタッと止まり、
廃業に陥ったなんて所もある位だ。
つまり女性の口ほど押さえることが難しいものはないともいえる。

そして涼香はその口コミと同様、噂のターゲットとされているのであった。



「ねぇ、ちょっと小耳に挟んだんだけど」

昼休みに行こうと席を立った時、涼香は同じフロアで働いている女性から声をかけられた。
同じ会社の人だとはわかるが、課が違って関係のない部署だと名前はもちろん、顔も知らなかったりする。
この女性の顔は知っていたが、名前までは知らない。
何故そんな人から声をかけられるのか不思議に思いながらも涼香は相手の言葉を待った。

「あなた最近まで男の人と付き合っていたのに、もう新しい彼氏ができたんだって?
 ねぇ、それってどんな人?」

「は……?」

瞬間、頭の中で何かが崩れた。
というよりか、何を言っていいか判らず、頭の中が空白状態に陥いる。

私がなんだって?

「……どういうことですか?」

「またまた。言いたくない気持ちもわかるけど今は幸せなんでしょう?
 自慢するつもりで教えてくれたっていいじゃない」

どこか遠くから声が聞こえるように彼女の声がかすれて聞こえる。
彼女は自分から少しでも情報を聞き出そうと、自分自身には覚えのない話を次から次へと喋りだした。

涼香にとっては事実無根なことを。


                 *

「私の噂話を聞いたんですけど」

ある日、どうにも我慢ができなくなって名前を知らない彼女から聞き出した噂の発生源の本人に
思い切って話しかけてみた。

この事を言おうか言うのを止めるべきか、涼香も相当悩んだけれど怒りの沸点を抑えることができずに
勢いのまま本人まで乗り込んでしまったのだ。

「噂?あなたの?」

白々しい。
あくまでしらを切るつもりかと思ったのだが、様子を見ているとどうやら本気で何のことかわからないらしかった。

「だからですね。私の彼氏の噂があちこちに立っているようなんですけど、ご存知ですか?」

「ああ」

どうやら思い当たったようで食べ終えたお弁当箱をかばんにしまいながら自分で納得がいったのか頷いている。

「新しい彼氏ができたんでしょ」

そう言いながら、その目は新しい情報を掴もうと爛々と輝いていた。

そんな彼女を思いっきり不快に思いながら、顔に出るのを抑えて声が震えないよう、
一言一言噛み締めて彼女へ言う。

「あなたがどうしてそう思ったのかわかりませんが、私には新しい彼氏なんていませんし、
 それどころかここ最近付き合っていた人もいませんよ」

「へぇそうなの?幸せそうな顔していたからてっきり彼氏でもできたのかと思ったんだけど」

「だからそうやって憶測で変な噂を流すのは止めてください」

彼女の全然悪いとも何とも思っていない態度に怒りが抑えきれず、涼香は彼女に単刀直入に申し出た。

二人の間に微妙な緊張感が漂う。

「ちょっと、それどういう意味?」

「どうって、そのままです。自分の想像通りに勝手に人のことを噂するのは止めて下さいって言ってるんです!」

涼香の言葉に彼女の眉がつりあがる。
そんな彼女の顔を見ていると余計にムカムカしてきた。

「余計なことは言わないで下さい。お願いします」

涼香はペコンとお辞儀をして彼女の顔を見ずにその場を後にした。

後ろでなんって生意気!覚えていなさいよ、と彼女が口にするのを無視しながら。


                  *

そして次の日から彼女の攻撃が始まったのである。

社内全てに事実とはかけ離れた出来事を噂として流し、いかに涼香が酷いことをしているのかと
涼香の聞こえる所でわざわざ皆に話して聞かせた。

いくら涼香が否定して回っても悲しいかな。彼女が怖くて誰も涼香の傍に近づこうとしないし、話も途中で席を立ってしまう。
そんなに彼女が怖いのか、と思いながらもその気持ちがわかる自分もいる。

だからと言って彼女の話に合わせて自分の悪口を言ってもいい理由にはならないが。

時々痛む胃を誤魔化しながら涼香は決心した。

これが理由で退職するのも負けたみたいで悔しい。
場合によっては負けることも有りだけど、自分で自分が正しい事を信じているから今回のことで
仕事を止める事だけはしたくない。

悩み、考えたその結果涼香は先程のように細かく吐き出すことで鬱憤を晴らそうと決めたのである。



「そうよっ。どこにいったって似たような人はいるんだから今ここでこんな目に合ったって同じこと。
 だったら今度の事もマイナスにしないでプラスにかえていい女になってやるんだからっ!」

彼女は自分へのいい教訓。
彼女の顔を見ているといかに美人であろうともああいうおバカなことをしていると醜く見えるから不思議だ。
と言うか、表情は心の鏡なんだなとつくづく思い知らされる。

ああはなりたくないし、なる気もない。

少しでも快適に暮らせるために発想転換ができる自分へとレベルアップしていくのが今の涼香の目標だ。

そしておいしいものを食べたりなんかしながら小さくても自分なりに毎日を楽しんで見せる。

挫けないが私のモットーなんだから!



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