憧れと現実の狭間
            
 



「忙しいのではなかったのか」

いつものように淡々とした声ではない、どこか暗い地を這うような声がマリオンへと問いかける。
青年を捉える瞳は離さず後ろから肩へと回された腕は痛みを感じるほど強く置かれていた。
マリオンはそんなシェルフィスの様子に気圧されながらもその腕から抜け出すために必死に体に力を込め、
引き剥がすように離れた。

「マリオン」

なぜシェルフィスから離れようとするのかわからないのだろう。
青年からマリオンへと険しい視線をむけながらもどこか戸惑ったような表情を浮かべるシェルフィスはどこか幼く見えた。
普段なら見ることもない表情だがそれさえも今のマリオンにはほんの少し心にひっかかるだけのことだ。
早くシェルフィスから離れないと彼の機嫌を損ねるよりももっとひどいことをしてしまいそうだから。
不条理な理由であたってしまいそうだから気持ちが落ち着くまで会いたくはなかったのに。

「無理強いはよくないのでは?」

静かな声がマリオンを助けるかのように割って入る。
その声と同様、目の前からマリオンを強引に引き離された青年の様子に変わりはない。
ただ淡々とシェルフィスへと言葉を告げる様子が余計にマリオンの胸を痛くした。
青年は純粋に心配して気分を晴らそうとして誘ってくれただけだ。
マリオンの気持ちが初めから他へと飛んでしまっていたことをわからないはずはなかったのに
青年はこうしていまだマリオンから去ろうせず助けようとしてくれる。

「マリオン様、そんな顔をなさらないで下さい」

唇を噛みしめ堪えるようなマリオンへと青年は優しく微笑んだ。

「私を気にすることはありません。私はあなたの気持ちが休まればとお誘いしただけです。
 無理をなさることはないのですよ。
 ですがどうやらあなたの不安がなくならない限りは晴れやかな気持ちへと移ることはなさそうですね。
 ……こうしてお迎えが来たのですからその不安を無くした方がいいのではありませんか?」

「…………っ」

「この方なのでしょう?あなたの不安の原因は?」

突き刺さるような青年の視線がマリオンの背後へと向けられる。
だが、そんな青年の視線をものともせずシェルフィスはどこか呆然としたようにつぶやいた。

「俺がおまえの……?」

「あなたは勇気がある方です。全てのことを乗り越えようとする勇気の、ね」

マリオンを励ますかのように一度肩をそっと叩きその背中をシェルフィスへと押しやると
すれ違いざまにもう一度強い視線を向けながらも青年は何も言わず去って行った。



                       *

俯いたまま黙っているマリオンを前にしてシェルフィスは戸惑っていた。

冷静沈着、同じ文官からは感情があるのかと言われる程感情の起伏に乏しいシェルフィスにとって
唯一おかしくなるのはこの少女の前だけだ。
今も青年の手がマリオンへと触れそうになったのを見て考えるよりも早く体が動いていた。
理屈ではない、感情に突き動かされた自分を疎むよりも少女の前に自分以外の男がいるということが我慢できなかった。

「どうして俺に嘘をついた?」

そんなにも男に会いたかったのか。それとも俺に会いたくなかったのか。
嘘をつかなくてはならなくなるほど。

いつも元気で明るくてたまにうるさいと思うことはあっても決して邪魔だとは思わなかった。
だからこんな虚ろな表情の視線を合わさない姿など我慢できなかった。

「黙っていないで何とか言ってくれ」

焦れたように小さな肩を己の両手で掴む。
そうしないと目の前の少女が自分の前から消えてしまうような気がした。

「だって」

「マリオン?」

片手を頬に充て俯いた顔をそっと上げた。冷たい滴が手を濡らす感触にシェルフィスはっと息を飲む。

「あ…か…」

「赤?」

「赤い色……シェルフィスの部屋にあった花よっ。今まで花なんて飾ったことなかったのに!
 それに、それに……あの女の人の唇……綺麗な赤だったっ!」

数日前にシェルフィスを訪ねた時、お気に入りの場所にあったこの部屋では見たことのなかった花瓶に
活けられた1輪の花。そして花の香りに混じって部屋にほのかに漂う甘い香り。

耐えきれずすぐに部屋を飛び出した。
長くいたくない、少しでも早くこの場所から遠ざかりたい。
気持ちで覆い尽くされて目の前の現実に嫌なことまで考えてしまいそうで。
彼が自分以外の誰かを受け入れてしまったのかと。

シェルフィスが他の人と同じ時間を過ごすことは当たり前のことでマリオンがとやかく言うことでもないのに
我慢ができなくて怖くなった。
めちゃくちゃに走り回っていつの間にかマリオンは彼の自室のある塔への入口付近まで来ていた。
怖いのに確かめたい気持ちが無意識にこちらへと足を動かしていたのだろうか。
そんなマリオンの瞳に映ったもの、それは信じがたいことだった。

「女の人と一緒に部屋に入って行った!私には駄目だって言ったのにっ!
 あの人、赤い花を持っていてシェルフィスは笑いかけてた。
 私、そんなシェルフィス見たことない!あんな優しそうな顔なんて……」

打ち解けた表情は二人の間の親密さを感じさせる。
自分の知らない、子供の知らない、大人だけの時間を。

「くっ」

「シェルフィス……?」

マリオンの耳に飛び込んできた初めて声を立てて笑うシェルフィスの声。
怒りも悲しみも一瞬忘れてマリオンはその場の光景を呆然と見たまま立ち尽くした。



                    *

「何を気にしているかと思ったら」

ひとしきり笑い終えてマリオンへと向きなおったシェルフィスの顔はいつもの顔とは違っていた。
現実なのにどこか素通りする景色のような感覚を抱えながらもマリオンの胸の痛みはとれることはない。
シェルフィスはまだ少し笑いの残る顔を向け、そんなマリオンへと手を伸ばした。

「マリオン」

びくっと震えたマリオンの肩へ置かれた冷たい手。
その手は肩から首を通り頭へとゆっくり移動する。

「おまえは俺のことをどう見ていた?俺が自分を裏切るようなことをする時間を過ごすと思ったのか?」

決して荒げられた声ではない。
だが確実にマリオンを追い詰め、心のかせをはずさせるには十分な深みと重みのある声だった。

「だって……だって、あの人は大人の女の人だものっ!男の人を包むことができる、隣にいることができる女の人。
 何も言わなくても大人の余裕で受け入れることができる。私には……子供の私にはそんな真似できないっ」

いくらわかりたいと思っても同じ位置に立つことができない。
赤い色が似合うような女性に、自分自身に自信を持ち一人で歩いていけるような大人になれない自分が
シェルフィスの傍にいていいんだろうかと不安になった。

何も知らない私。自尊心が強くてそれなのに強がる所は強がって、彼にとっては余分な地位を持っている自分など
いなくてもいい存在としか思えない。

「大人と子供を何で分ける?外見か?年齢か?それともそれ以外の何かか?
 大人の条件に当てはめれば大人なのか?子供だから大人のことは分からないのか?」

「私……」

「大人だから分かり合える訳でもないし、大人だからすべてできると言う訳でもない。
 おまえがそう思うこと自体おまえは自分のことをわかっているのだと思わないか?」

慰めるようにひとつひとつの言葉を伝えてくれる。答えを直接言う訳ではないけれど考えるように仕向けてくれる。
私と言う自分を見つめ直せるように。

「彼女は俺の仕事上の上司だ。俺の指導者だった。
 だからどうしても逆らうことができなくて今回も書類を取りに行くと強引に部屋に入られてしまった」

それに彼女は結婚している、と肩をすくめて言う。
不安で揺れていた瞳が大きく見開かれる。

「赤い色が似合うのは大人とは関係ない。それぞれ一人一人に似合う色がある。
 それに年齢とともに似合う色が変わってくることも。
 マリオン、おまえはどんな色にもなれる。自分が望む色にこれから歩いて行く時間の分だけ」

憧れていた赤い色。
似合うようになりたいと思っていたけれど現実は違っていた。
シェルフィスはマリオンの無理をわかっていて心のかせがはずれるようにしてくれた。

あこがれていた通りにいくことは難しい。
現実は厳しいけれど少しでも憧れへと近づけるように隣に立っても自然であるようにありたい。
それがたとえ自分の思っていた形と離れていたとしてもそれが私にとっての現実なのだから。

「おまえはおまえの道を行けばいい」

その言葉がマリオンを支えてくれる。勇気を与えてくれる言葉は現実へと変わっていく。



back   セサルディ王国物語top   novel