大いなる幸せ
2
「ねえ、どこに行くの」
仕事をしようと執務室への廊下を歩いていたを目の前に現れたヴァルアスは有無も言わさず攫うように連れ去ったのはつい先程のことだ。
就業開始時間はとうに過ぎている。城内での仕事でなければ問題はないが執務室の、ましてやサーシェスの下でとなると事細かく執務内容が決められている為に
遅刻厳禁だ。いくら同じ部署の人間に会ったとしてもそれで執務が滞るような事態は許されない。この先の自分の姿を想像しは慌てて自分を引っ張っていく手を
力を込めて引き戻した。
「ヴァルアスってば!」
「なんだ?」
「なんだじゃないでしょう!もうすぐ就業時間なのにどこに行くの?早く行かないとまずいのに」
「大丈夫、大丈夫」
「大丈夫って……あ、もしかしてサーシェスの仕事じゃなくなったとか」
「う〜ん」
「違うの?そんなんじゃ遅れたりしたら」
想像するだにぞっとする。あからさまに怖いという訳ではない。ほんの少しの言葉を貰うだけだ。ただその少しが針で突かれるような鋭い言葉と冷たい視線が
加わるというだけで。いくら慣れつつあるとは言ってもどれだけ心臓に負担がかかるだろう。そのような事態は避けられるのなら一つでも避けたい。
そんなの思いを外にヴァルアスは鼻歌など歌いながら楽しそうにどんどん前へと進んでいく。こうなったヴァルアスは誰が何と言おうと止められるものではない。
もうどうにでもなれと捨て身の気持ちを抱えはとぼとぼとヴァルアスの後を付いていった。
*
「あ〜、気持ちいい!」
風が体を包み込むような感覚がくすぶっていた気持ちを取り除いてくれる。現金かもしれないが、先程までの迷いなどほんの些細なものに思えるほど遠くへと
運び去ってくれたようだ。
いつもと違う視線の高さも気分を変える要因なのかもしれない。ずっと乗りたかった馬だが、忙しい人達を前に乗り方を教えてくれと頼むこともできなかった。
こうして予想もしていなかった出来事に気分が高揚してくる。
「ほら、しっかり掴まっていろよ」
ふわふわしていた気持ちを戻すように大きな手がの手を掴み逞しい腰へとまわすよう促してくる。直ぐ傍に感じる熱に一瞬にして現実へと戻された。
「だ、大丈夫だからっ」
「初めて乗るんだから慎重にいかないと。本当気持ちいいよな」
警備隊では剣や武術の訓練は行ったが馬術の訓練は受けていない。ほとんどが人の多い街の中心部での警邏であったため必要がなかったからだ。
たまに郊外に出ることがあっても馬以外の乗り物を使っていた。念願が叶ったのは嬉しいがそれだけではない。久しぶりに見た心からの表情に安堵する。
忙しい日常を送るヴァルアスの息抜きに貢献できるのなら少しの己の気持ちの乱れなど些細なことだった。
「あ〜、このままでいたいよな〜」
「そうだけど、後が怖いわよね」
いくら強引でもきっぱりと拒絶できなかったには己に責任があることはわかっている。それに気持ちがよくてヴァルアスの良い顔が見られたのだから十分に
満足できることだ。これは完全にシェルフィスの怒りに触れるのを覚悟するしかないだろう。
「まあ、そんな顔するなよ。心配ないって」
「もう、相変わらず呑気なんだから」
「俺はこんなんだって知ってるだろう?今更さ。それよりもうすぐ着くぞ」
「着くってどこに」
「ここだ。到着〜」
言いながら馬を止め軽やかに飛び降りる。そのままへと手を延ばすとまるで重さを感じさせぬまま自らへと引き寄せた。
「……っ!」
急に高い所から降ろされたことへの驚きより広く大きな温もりに心臓が踊ってしまう。そんなの気持ちを落ち着かせるかのように強くギュッと抱きしめると
体が前へと押し出された。
「見てみろよ」
一瞬呆けたようにしてしまった自分が息を飲んでいたことに気が付いたのは聞きなれた声に我に返ったからだった。
「見事だろう」
淡々としている声がいつもと違う響きを交えている。その表情は珍しく陶酔とも言えるものでもあった。
「シェルフィス……?!」
「ここは我らにとって神聖なる地だ」
「俺達の始まりの場所。四部族の間では深き抱かれる森とも呼ばれている」
「行方不明者が多数出た為に一般人は恐れて近づこうともしない」
「リュークさま、ルティ」
いつの間にか気配を感じさせず、まるでを守るかのように傍に佇んでいた青年達に自然と安堵の吐息が漏れる。
突然のことでも心が乱れることはない。それ程に自分にとってなくてはならない存在なのだと心から実感した。
「おまえにはどう感じる?」
まるで試すかのようなシェルフィスの視線が心の奥底まで探るように突き刺さる。その重圧に負けないように腹底に力をいれると
自らの感じるままの言葉を紡ぎ出した。
「底知れない場所。隠している何もかもを暴け出してしまうようでとても怖いと思う。でも……全てを受け入れてくれる、そんな深く揺蕩える場所でもあるんじゃないかしら」
人の心の全てを写し取るような深き場所。外から見ているだけではわからない、踏み込んでもわかりきることはないかもしれない。
それでも近くに寄り添わないと本当のものはわからない。まるでこの人たちのような。
「まったくおまえは」
「鈍感なようでわかっていて」
「らしい」
「やっぱり愛されているよな」
鮮やかな笑顔が目の前に広がる。
予想もしなかった穏やかな時間。彼らの根源をほんの少し共有できたことが自然と心に入っていく。
後からこの場所への誘いは普段の仕事に対してのご褒美的なものだったと聞かされたのだが、この時はただ包まれたような幸せを噛みしめただけだった。
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