満ち足りし願い
森はいつにも増して鬱蒼としていた。霧が立ち込め辺りの視界が全く効かない。だがここで躊躇って引き返すことは
できなかった。どうしても成果を持って帰らなくてはならないのだ。薬の材料となる薬草はその年の天候に左右されることが多い。
今年は例年より天候状態だけでなく悪い条件が重なり不作の年となっていた。それでも不作だからと言って必要な量を
確保できないようであれば薬師を名乗る資格などないとルティは思っている。もちろん市場で買ったり他の者から融通を
利かせてもらうこともできないではないがそれはプライドが邪魔をした。多少の危険を冒してでも違う道、場所へと
分け入る事も仕方がないと覚悟を決め前へと足を踏み出した。
フェニキア家の人間は小さな頃からあらゆる知識を詰め込まされ技能を身をもって教え込まされる。その中にはもちろん
危険に対する対応も含まれているがあくまで一般よりほんの少し上程度だ。身体能力も格段に優れているという訳では
ない。もちろん通常状態ではだが。全てにおいて神経を張り巡らすことにも限界がある。
しまったと思った時には体は既に宙に浮かんでいた。いくら条件が悪くてもこうしたじめじめした所を歩きまわるなんて
慣れたものなのに足を滑らすなんてどうかしているとしか言えない。
こんな時いつでももう一つの姿に自由になる事ができるヴァルアスが羨ましい。あちらの姿ならどんな崖の高さだって
平気で回避できたはずだ。もうすぐ来る落下の果ての衝撃が解っていながらどこか冷静でいる自分にルティはわずかな
笑みを浮かべたのだった。
*
「くそっ、やっぱり痛い」
運動神経は悪くはないと思っているがやはり宙に浮かんだ状態からは足で着地とはいかなかった。
これがヴァルアスやリュークエルトなら両足で地面に立っていることだろう。サーシェスは受け身くらいなら取るだろうが
完全な着地とは行かないに違いない。否、そうであると思いたい。たとえ誰も見ていなくとも自分だけが無様な格好を
しているなんて許せないものがあるからだ。
「でもおかしい」
かなりの高さを落ちたはずだがその割に痛みは軽い。傷の一つも覚悟したがどこにも目立ったものはなかった。
「ここは……どこだ」
辺りは暗いかと思いきや明るく広い空間になっている。いや、空間と言うよりも森はどこに行ったのかあきらかに
人の手の入った敷地が目の前に現れていた。
「森は?それになんだこれは……」
まるで吸い寄せられるように体の周りに月の光が集まってくる。自らの手が見えないほどの光に包まれたルティに
鋭い声が掛けられたのは力を出せるかどうか試そうと思ったその時だった。
「誰っ!!」
微かに震えを含ませながらそれでいて気丈に出された鋭い声。振り向いた先にいたのは自分と同じ年ごろくらいの少女だった。
整った顔立ちは予期せぬ事態に緊張をしている所為かこわばっている。外見は違う、一瞬見ただけではわからないはずだと言うのに
ルティはどこか愛しい少女に重なるものを感じていた。
会いたい。
離れて間もないのに募るものはただ無性にに会いたいと思う気持ちだった。そんな弱さに自分でもうろたえながら
それでも表面には出さずに少女に対応していたルティを我に戻したのは一つの言葉だった。
「月の色なんてそう変わらないでしょ」
見上げた空に浮かぶのは一つの月。それは変わらない。変わらなかったが月の色は今までに見たことのない色を
放っていた。
*
森の奥に潜む危険、それは歪んだ空間だったと言うのか。
マリオンと名乗る少女の言葉からルティはそう推測した。常にその危険はあるのか、何かが重ならないと発動しないのか、
それともたまたま偶然なのか。わからないがそんなことよりも今は大切なことがあった。
「頼む、ここにある植物を分けてくれっ」
見たことがない植物が目の前の花壇に植わっている。だがそれは今までの知識と勘から薬草であると確信していた。
危険を覚悟して臨んだのは一人でも多くの人を助けるために薬の材料となる薬草を手に入れるため。
追いすがられた手を振り切ってまで来たのに何の成果を持つこともなく戻ったのでは意味がない。
呪いの月の所為か今までになく魔物の活性化、病気や心の病が蔓延している世界に必要なのはほんの小さなことでも
希望となりえる光であろう。
目の前の少女に負担を掛けることは心苦しいがそれでもそれを凌いででもやらなくてはいけない時もある。
好意から出た申し出を少々強めに言葉で放ったが気にした様子もなく笑顔を見せたのは自分の意志を酌んで
くれたためと思う。似ている姿を思い浮かべながら自然とルティは相手のどこか悩んでいる姿に助けたいと思うように
なっていた。
「僕も同じだった。相手の気持ちを邪魔扱いして失いそうになって初めて気付いた。
大切な事ほどギリギリにならないとわからない」
自分のことばかり考えていたルティには大切なことを教えてくれた。
心に傷を抱えているからって何をしてもいい訳ではない。いなくなってもいい人などいない。それがたとえ自分だとしても。
全身全霊で全ての事に向かって行くからいつの間にかルティの頑なな心も開いていたけれど今度はこちらの心臓が
痛くなるようになって。それでも傍から離れることなど思いもつかなかった。
きっとマリオンも同じようなものだろう。難しい相手の気持ちに振り回されても諦めることができず離れることもできなかった。
それならば時に佇むことがあったとしても前を向いて相手に寄り添った方がいい。目の前の少女ならきっと相手の心を
溶かすことができるだろうから。
きっとその時にはマリオンは最高の笑顔を浮かべることになるだろう。
だがどうやら時が満ちたようだ。寄り添うように風が身を包み月の光が体にまとってくる。
最後に掛けた言葉とともに幸福がマリオンの元へと届くようにと祈りルティはそのまま身を委ねた。
*
「……またか」
辿りついた時に受けた痛みに顔を顰めながら息を吐き出す。
どうやら崖の上から落ちた衝撃はそのままらしい。痛む体を庇うようにしながら立ち上がるルティに月は
変わらぬ光をもたらしている。
「夢じゃない」
手にはしっかりと大事なものが握られている。
「ちゃんと育ててみせる」
への気持ちを再確認することができたマリオンとの出会い。
ルティには大切な薬草と言う以上に大切なものをもらうことができた。約束をしたからには必ず守る。
それは薬師としての誇りでありルティ自身の誓いでもあった。
「戻るか」
きっと今頃不安と心配と怒りを携えて自分の帰りを待ちわびている少女が自分を捜しに森に来ないためにも
家路を急がないといけないだろう。
「ありがとう」
違う世界に生きる少女への感謝を小さく呟くとルティは愛しい少女の元へと歩き出したのだった。
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