シークレット・ポイズン
前編
薄暗い空間は静けさとは無縁だった。
喧騒とした雰囲気は一発触発ともいえる微妙な緊張感に包まれている。
店にあるいくつかのテーブルは酒を飲んでいい気分になった男達がいつものごとく場所を占めていた。
仕事の不満を口にする者や惚れた女のことを自慢する者、己の手柄を誇張する者。
日々の出来事を、酒を飲みながら互いに話す変わらない光景。そんな中ゼグドゥは一人カウンターに座り、酒を楽しんでいた。
カウンターには他に誰もいない。
酒を飲む彼の邪魔をする馬鹿な奴は新参者か余程気を読むことに疎い者に限られているだろう。
今日もいつもと変わらない夜が往く。
そう誰もが思っていた。
だが、男達の気分が最高潮へと移り行く頃、異変は起きたのだった。
*
「隣いいかしら?」
3杯目の酒をゆっくりと楽しんでいたゼグドゥの右手から静かな声がかかった。
場末の酒場に似つかわしくない女の声。まったく女が訪れないといったことは無いが、訪れる数はしれている。
相手が誰であろうとゼグドゥはそちらに視線を向けながらも神経を緩める事はない。
だが正面から相手をまともに捕らえると、その意外さにほんの少し眉をピクンとあげた。
ゼグドゥから一つ椅子を空けて座った女はいかにも旅慣れた格好をしていたがその声から想像できる女の種類とは違っていた。
背は高い方といえるだろう。
だがその骨格はあまりにも線が細くその上それに合わせたようなかわいらしいと言うよりは儚げな風貌をしている。
それなのに腰には荒くれ男達の用いるような剣を下げていた。
「同業者か」
「ふふっ。さてどうでしょう?」
かわいらしく笑うその様は格好さえ改めれば普通の町娘に見える。
雰囲気というか、気配もとてもその生業をしているものとは言えない。
それこそ女一人で旅を続ける者がはったりとして自分で扱えるものよりは少々物騒な物をぶら下げている場合もあるので
目立って視線がそちらにいったとしてもそれくらいのものだ。
もちろん自分の力量に合わせた護身用の物を持っていたり、実際にその外見通りの実力を備えている者も皆無ではないが。
しかし、この女はいったい何が目的で自分に話しかけてきたのだろうか。
「お前……用は何だ」
「用?
あなたがあまりにもいい男だったからお近付きになりたかったのって言ったら信じる?」
「そんな風には見えないが」
女に限らず大抵そういった目的で近付いて来た者は目をみれば大体わかる。
だが、この目の前の女にはそういったことは感じられない。
いやそれどころか目的といったものがまったく感じられなかった。
いったい何を考えている?
それとも単に退屈を解消するためだけに自分に話しかけてきたのだろうか。
「まあそれだけじゃないわ。確かにいい男だとは思うけど。
用……私の用はね……」
女が言葉を区切ったかと思うと
ピタッッ
「こういうことなの」
ニッコリと笑いながら突きつけられたのは少しでも動けば首の皮が切れてしまうほど鋭い短剣のきっさきだった。
*
「いったいなんのつもりだ」
油断した。
配っていた気がそれた一瞬をぬって致命傷となる位置へと突きつけられた短剣。
先程までとは違い、女の気は殺気を伴ったものへと変わっている。
これが戦場なら自分の命は既に無いかもしれない。
だが女は自分の命を取ろうとした訳ではないらしい。
鋭い眼と立ち上らせていた気を散らすとゼグドゥに向かって微笑んだ。
「悪くないわね」
その言葉に値踏みしていたのかと逆に女を睨み返す。
そんなゼグドゥにも女は動じず言葉を続けた。
「今はまだ足りない部分も多そうだけど、もう少し時間と経験を積めばそれも補える。
ねえ、ゼグドゥ。3年後、私と組まない?」
あ、もちろんあなたの命があったらだけど。などと勝手で無礼なことを女は言い放った。
余りにもあっけらかんと言う女に唖然としたゼグドゥだったが、さすがに一言言うべきだろうと口を開きかけてふと気付いた。
「おまえ、なんで俺の名前……」
「知っているかって?わかるに決まってるじゃない。
あなた自分の腕にはそこそこ自信があるでしょう?
だったら自分が相手を知っていなくても相手が自分を知っている事くらい把握しておきなさい」
いかにもあきれ返った女の言いぶりにさすがのゼグドゥもカチンときて言い返す。
「そういうおまえは?俺がおまえを知らないって事はさほど有名じゃないってことだろう?
そんなおまえが俺を誘うだなんて実力不足だとは思わないのか」
普段なら女にこんな言い方はしないが嫌味も交えて言い放つ。
それなりにこの世界で生き抜いてきたというのにこんな暴言を言われっぱなしにはしておける訳がない。
だが女はゼグドゥの言葉に深くため息をついた後、真正面から瞳を覗き込むように見つめ、口を開いた。
「これだから今すぐには組めないって言っているの。人のことを表面だけしか見ていない。
気配を読むことも内面を見つめることもうわべだけに惑わされて騙されてしまう」
「なっ……」
「図星さされて怒れるようじゃあ私の事もわかる訳がない。
全体を見ていないからよ」
その言葉と同時に女の気配が変わった。
ゼグドゥの反論しようとした口も途中で止まってしまう。
辺りの喧騒が一瞬で静まり返えったが、ゼグドゥはそんな様子にも気付かないまま女に魅入られたように
目を離せられないでいた。
「そんなに知りたいなら教えてあげる。
私の名はカディス。カディス・ポイズンよ」
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