さくら



風が春の匂いを運んでくる。
植物が芽吹く若々しい香りが柔らかくなった太陽の光とともに春を告げていた。

気持ちいいなあ。あまりの心地よさに眠たくなってきた。

自分の席でぼーっと窓の外を眺めていたゆきを残してクラスメート達は次々と足早に教室を後にして行く。

「それじゃあ私も帰るわ。また明日」

「えっ?マキちゃん帰っちゃうの?」

「用もないのに教室にいても仕方ないしね。
 それに待っている人がいるからいつまでも残っていられないの」

「ああ、そっか。彼氏とデート」

「そういうこと」

寂しいけど仕方がないか。
マキちゃんの年上の彼氏は忙しい人だから平日にはなかなか会えないみたいだし。
それに何よりこんなうれしそうな顔を見ていたらとても引き止めることなんてできないなあ。

「じゃあ、ゆき。お先」

「ん、バイバイ」

みんなそれぞれの場所へ移動している。
それなのになにか気分が乗らない。動くのが面倒になる。

「……でも帰らなきゃ」

声に出すことで意識を覚醒させようとする。
机の上についていた頬杖をはずしてゆっくり立とうした時、教室の後ろの出入り口が大きな音を立てて開いた。

「ゆき先輩みっけ!」

大きな響く声が私の名を呼んだ。

「啓人くん」

伸び盛り真っ最中の躍動感溢れた姿がその声と同じく元気よくゆきを目掛け狭い教室内を走ってきた。

「ゆき先輩、帰りましょう!」

「え?だって部活は?」

「今日はお休み。なんかあんまり人が集まらないみたいで。
 ま、たまにはこんな日もいいかな。ゆき先輩と一緒に帰れてラッキー!」

「珍しいね。一緒に帰るのはいいけど何かもう少しここにいたいかな、なんて」

「そのまま座っていると帰るの嫌になっちゃいますよ。たまにはそういうのもいいかもしれないけど。
 まさか俺と一緒が嫌だから、なんてことじゃないでしょうね?ま、そんなこと言ったって却下しますし、今日は駄目です」

「今日は駄目ってなんで?」

今日は何かあるのかなと考えている私の前で啓人くんはがっかりとした表情を浮かべた。
ちょっと悔しそうな色も滲ませている。

どうしたんだろう。

「啓人くん?」

「ゆき先輩忘れたんですか?俺と約束してくれたでしょう?
 春になったら、ゆき先輩より背が伸びたら俺といっしょに桜を見に行ってくれるって」

啓人くんの言葉に去年の今頃にした約束を思い出す。

でも、それって

「桜の花が開いたら、だったでしょう」

「そうだけどもう開いているかもしれないじゃないですか。花が満開になってから来るのもいいけど
 その前から見ていけば楽しみも増えるし。それにせっかく部活が休みになったんだから先輩と
 いっしょの時間を少しでも過ごしたいって思うよ」

「け、啓人くんっ」

ストレートな言葉に一気に心臓の鼓動が早くなった。

今の言葉だけじゃない。今まで意識しないようにとしていたたくさんの言葉が次々と浮かんでいく。

「約束だからね。俺の、俺だけのゆきになってくれるっていう約束」

「まっ、まって。私まだ……」

言いかけた私のことばを遮るように開きかけた口にそっと当てられた指は恥ずかしさと緊張で震えた私の体と
同じように震えを伝えてきた。

「今はまだ聞かない。先輩が言うように桜の花は開いていないから。
 俺の言葉も気持ちも言っていないから俺に聞かせちゃ駄目だよ」

微笑むその姿はあどけなさのとれた一人の男性としての顔。
艶っぽい表情に視線が外れない。魅入られたように動けない私の手を取りそっと引いた。

「桜を見に行こう」

先程までのぼうっとした気分はどこかにいってしまった。

頭の中を占めるのは淡くて優しい桜の花。
そして啓人くんの忘れさせてくれない強い言葉。

桜の花で包まれるまであとほんの少し。



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