ビターバレンタイン
「うわっ、おいし〜」
甘い匂いに包まれたおしゃれな空間の一角で沙耶はうっとりした表情を浮かべた。
ケーキを販売しているお店の小さなスペースにはそこで食べられるようにテーブルが二つ置かれている。
時期が時期だけに先程から人が引っ切り無しに出入りしているが目の前の誘惑に気を取られている
沙耶にとっては少しも気になっていないようだ。
お店に来ている人にとっても目的に一直線なのでお茶をしている人のことにあまり関心はないのだろう。
テーブル席には目もくれずケーキやチョコレートの並ぶショーウィンドウへと突き進んでいた。
「で、何か悩んでいることあるんでしょう?」
綾香はゆっくりと紅茶を一口飲むと笑顔を浮かべながらケーキを食べている沙耶へと言葉をかけた。
待ち合わせの店に入って来た時の沙耶の顔。
落ち込んだような苦しいような、いつもの元気な沙耶らしくない表情だった。もともと感情が表に出る方だったが
今日はいつにも増してひどい。こうしておいしいケーキを食べていてもどこか薄く影が帯びていた。
「ねえ、綾香。私ってそんなに嫌な所ばっかりあるのかな?」
「何で?なに突然」
「あのね、綾香にはいつも申し訳ないんだけど聞いてくれる?」
笑顔を消し、手にしていたフォークを置くと沙耶はぽつぽつと話しだした。
*
「そっか」
毎日長い時間を過ごす場所での出来事。
どうしても逃れられないことであれば悩みも溜まる一方だろう。
ケーキだけでは表情が晴れないのも無理はない。
「人の感情って難しいわよね」
聞き終えた綾香の言葉に俯いていた沙耶の顔が弾かれたように上がる。
何の言葉が飛び出すのか緊張していたのだろう。泣きそうな沙耶を安心させるように綾香は微笑んだ。
「義理チョコって面倒くさいって私は昔から思っているけどこうして働くようになってからはその職場のルールに
従わなくてはならないことってあるわよね。皆が渡すと言うのであれば渡した方がいいだろうし、渡さないのなら
それに準じた方がいい場合もある。
もし自分が普段お世話になっているから渡したいと思って渡したとしても周りの人はそう取らないこともあるし。
その人に気があるなって思ってくれたらいい方でごまをする、点数を稼ぎたいからだろうってあからさまに言う人もいるから」
そんなことがあるって初めて知った時あまりのことに呆れて言葉がでなかったのを覚えている。
素直な気持ちを出しただけなのにどうしてそんな取り方をするんだろうって。でもだんだんと何年と見ていく中で
ようやくそうした気持ちも少しわかるようになってきた気がする。そんなことを言う人の中には言っただけの同じ気持ちがあるのだ。
渡したいのに渡すことができない。気持ちだけが溜まっていくのに簡単にやってのける人がいる。
悔しい気持ちの高まりが嫉妬、焼きもちとなって言葉として出てしまう。うらやましてくたまらない。
「沙耶の場合逆よね。その男の人って普段から沙耶のことを良い風に言わないんでしょう?」
「う……ん。私はその人に何もしていないのにふと見ると睨まれているの。
普段は仕事上でも接触ないし、ただ同じフロアにはいるんだけどそれだけ。
それなのに挨拶しても挨拶は返ってこないし、他の人に私のこと良いように言っていないみたいで」
いつも明るい沙耶。その男の人はひょっとして。
「うらやましいんだ」
「え?」
「全然知らない人は別として一緒の課の人達は沙耶のこと何も言わないでしょう?」
思い出しながら首をこっくりさせる沙耶。
「やっぱりね。同じ課の人達も絶対にその人から沙耶のこと聞いていると思う。
でも態度が変わらないのならそれは沙耶のことをちゃんと見てくれているから。
知らない人やその人に嫌われたくない人は何も確かめずにそのまま無条件で信じちゃう。
沙耶は何もしていない。何が悪いかも言ってくれないのならその人達のことは気にせずに堂々と胸を張っていればいいわ」
気にしないでいるのは難しい。
視覚として目に入るのだからどうしたって嫌な気持ちにならないことはないだろう。
だけどだからと言ってその人が望むとおりに打ちひしがれた姿を見せることはない。
自分にできないことをしている人がうらやまくて勝手に憎しみの感情を育てている人になんて。
「職場のルールなら義理チョコもその人にあげた方がいい。
たとえ沙耶があげた方がいいか迷っていたとしてもね。
相手がどう思っていても沙耶は気にすることないわ。おどおどせずに渡しなさい」
沙耶には笑顔が似合う。相手の負の感情も吹き飛ばすくらいのまっすぐな気持ちを変える必要なんてない。
「さ、そんな人の話はそれくらいで。せっかくおいしいケーキを食べに来ているんだから。
沙耶の一口ちょうだい。私のも食べる?」
「限定だもんね。綾香のもおいしそう!」
マカロン、チョコクリーム、ガナッシュ。
限定期間の特別な力のこもった甘いお菓子達。ちょっぴり苦いものもあるけれど全てを包み込んで。
私達のバレンタインはそんな特別な日。
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