ある社会人の熱情
1
「これをやったのは誰」
昼からの電話ラッシュがひとまず落ち着いて誰もがホッと肩の力を抜いた途端その声は響いた。
緩みかけた空気が再び緊張に包まれる。
「私ですけど……」
一斉に部屋中の視線が集まるのを意識しながら、涼香は仕事の手を休めて立ち上がった。
部屋を見回していた彼女の視線がピタリと涼香の前で止まる。
怯む気持ちを自分で叱咤しながら彼女の鋭い視線を涼香は真っ向から受け止めた。
二つの視線の間で見えない火花がぶつかり合う。
「これを見て何か変に思わない?」
穏やか過ぎる彼女の口調に周りから小さなざわめきが起きた。
穏やかだからといって安心してはいけない。
それはこの部屋にいる人間の間では暗黙の了解だ。
穏やかであればあるほど、彼女の苛立ちのボルテージは上がっているといってもいい。
つまりそれが本人以外の暗黙の了解ということは彼女のこの行動は日常茶飯事であると同時に
みんな一度は被害に遭っているという訳だった。
「あの……どこがですか?」
涼香にはどこが悪いのか皆目検討もつかないしさっぱりわからない。
自分はあくまでいつもと同じ通りの事をしただけだ。
それでなんで変に思わなくてはならないんだろう?
「商品の位置が違うでしょう!まったく、何回もやっていてどうして間違えるの!」
「え……?」
位置が違う?は?何言ってるの?
「これでいいと思いますが……私は今までと一緒で教えてもらった通りにやりましたけど」
何言ってるのこの人、と内心では思いながら口では素直に事実を言う。
だがその私の答えは彼女のお気に召さなかったらしく彼女は少し眉をしかめながら問いかけを続けた。
「教えてもらった?誰に?」
涼香は先月退職した先輩の名前を口にしたのだが、名前を告げたと同時に部屋のあちこちから慌てたように
口走る人や首を小さくこちらに向かって横に振る人の姿が目に入る。
これが彼女の最大に聞きたかった事とは気付かずに訳のわからないまま首をかしげた涼香の前で
次の瞬間世にも恐ろしい光景が展開されたのだった。
*
「いいかげんにしろってんのよっ」
賑やかな居酒屋の一角で涼香はチューハイのグラスをダンッとテーブルに叩きつけた。
グラスの中身が勢いのままチャポンと音を立てて揺れる。
「もういい加減にしなよ。今何杯目?明日休みだからって限度超えてるって」
私あんた送っていけないからね、と友人の冷たい言葉が涼香へと容赦なく降りかかった。
「冷たい〜〜〜っ」
「うるさい、酔っ払い」
次々と繰り出される友人の文句の言葉はもうろうとなった涼香の頭には残らず、
右から左へと通り抜けて行く。だけどそんな状態になっても涼香の腹立たしさは収まらなかった。
本当飲まなきゃやってられない。
確かに私も段取りが悪かったかもしれないし、ひょっとしたら間違いがあったかもしれないって認めてもいい。
いくら自分に間違いがないって自信があったとしても絶対かって言われると途端にあやふやになってしまうことだって
あるんだから。
でも、でもっ!
「自分の好き嫌いで勝手に物事決めるな〜〜〜っ!!」
そう。今回の事は確実に彼女のライバルだった先輩から教わったのが私だったから
それだけでっ私のやった事が気にいらなくて皆の前でわざわざ言ったに決まっている!
その証拠に同僚達の彼女が来る前のコソコソした落ち着かない様子や言った後の態度が
十分過ぎるほど物語っていた。
「もうっ!次何にしようっ。あ〜でもお腹いっぱいになってきた〜」
だったら飲むのを止めろと言う声を無視して、店員にチューハイのおかわりを頼む。
明日は二日酔い決定なのに飲むのを止められない。
涼香だってわかっている。
年功序列じゃないけれど、年齢を経て経験をたくさんされてきた人には一般の白黒は通用しなくて、
その人の白黒で判断されることもあるんだって(もちろん全員じゃないけどね)。
逆に年齢に関係なく物事を公平に判断している人もいるし、経験に基づいた上で注意をしてくれる人もいるんだけど。
理不尽な出来事があったとしても、それが社会だって言われればそれに従う事だって
しなくちゃいけないこともあるんだってことも知っている。
でも、でもだ。一回、二回どころか十回、二十回、
毎日一回ってことにもなれば鬱憤が溜まってきても仕方がないだろう!
それともそれすらも我慢しなくてはいけないのだろうか?
だから自分は自分なりに健全?にこうして飲む事で発散しているというのにっ!
「色気ないわね〜。まあその調子で頑張って。じゃ、私明日予定があるからお先にね」
「ちょっと待ってよ。私を置いていくつもり?」
「あんたは襲われないから大丈夫。んじゃ気をつけて帰ってね。おやすみ」
「もう少しつきあってよ〜」
あんたと飲むと限ないからね、と手をヒラヒラ振って出て行ってしまった。
「う〜〜〜」
女一人でだらだら飲み続けるのも勇気がいる。
これがおしゃれなバーとかだったらともかく、居酒屋では気が引けてなかなかできない。
「潮時か」
毎回毎回同じパターン。
愚痴言って、思いっきり飲んで食べて。
周りから見ると色気がないとかいい加減に同じ事を繰り返すのはやめたらとか、
飲み食いした分身になるってわかってる?とか。
あーわかってますって。
お金もさびしくなるし、後から気持ちが悪くなるしスタイルとかも気にしなくちゃいけないし。
(切実な意味の問題で。さすがに体形変わって服を買い換えるとかは遠慮したい)
でも結局同じ所に行き着いちゃってる。
それならいっそこれが私の発散方法だって開き直っちゃうしかない。
考えることも大切だけど、考え過ぎると返って袋小路に行き当たってしまう。
だからその時その時で後悔なんてしながら(ここがミソ)大いに飲んだり食べたり。
「あんたが一番偉い訳じゃないってんのよ」とか言って発散するの。
これが私の日々の熱情開放方法だから、ってね!
next novel