闇の迷夢 



男はその扉の前で途方にくれていた。
考えに没頭していたせいか、いつの間にか裏手の路地に入り込んだようだ。
いつもと変わらない通りを歩いていたはずなのにいつの間にこの見知らぬ道へと迷い込んだのか。
明日も今日と変わらない忙しい日となるはずだ。
早く家へ帰って休まないと余計に疲労を溜める破目となる。
そう思い後ろへと振り返った時男の目の前に広がったのは何もない闇の空間だった。
ここが外であるなら月や星の光くらいはあるはずなのにそれすらない。
というよりはどう言う訳だろうか、空そのものが存在しない。
ありえないことなのにここにあるのは現実だ。
ほんの少しの光も差し込む隙のない深い暗闇は男を恐怖の淵へと誘い込む。
足元が崩れるような感覚に男は縋る思いで体の向きを戻すとその勢いのまま扉を押した。


                *

薄暗い照明が部屋をぼんやりと照らしている。
カウンターと見られる場所には夥しい数のビンが棚を埋め尽くしわずかな光が反射して静かに柔らかい色を放っていた。
どうやら酒場のようだが人の気配が全くない。
男が帰路へとついた時間はこういった場所ならこれからという時間のはずだ。人がいないということは、今日は休みなのだろうか。
いや、扉が開いたからには休みではないのだろう。だが、客はいないにしてもこの店で働く者でさえいないとは……

「ようこそ」

「…………!」

突然掛かった声に男は飛び上がるほど驚いた。心臓が破れそうな程鼓動を打っている。
急なことに悲鳴を上げたかった声も縮こまって詰まったようになってしまっていた。
そんな男の様子に気づいているのかいないのか。
慌てることもなくカウンターへと二つの影が近付いてきた。

「お…んな?」

ほのかな明かりに照らされた顔がくっきりと浮かび上がる。
小柄でありながらどこか見るものを引き付けて放さない魅力とでも言ったらいいだろうか。
独特な存在感が女を大きく見せていた。

「ここに辿り着いた、それはあなたがここに来ることを望んだから」

女の深みを帯びた声。

その声は抗う者を許さないようにも聞こえたが男は抵抗するように半ば悲鳴じみた声を必死に出した。

「そ、そうだっ。ここはいったいなんなんだっ。
 いつの間にかこんなところに迷い込んで……それに客の一人もいないっ」

「私の元に来たのはあなたが望んだからよ」

「な…んだと……」

「私の…ファーラの店へは望んだ者しか来られない。
 日々に疲れ、悩み持つ者しか入れないの。ね、いいかげんに認めたらどうかしら」

ファーラと名乗った女の背後から傍に黙って立っていた男がグラスをスッとカウンターへと滑らした。
グラスに注がれた青い色は男の心を暴くかのようにどこまでも透明で澄んでいる。
男は自然と魅かれるようにグラスへと伸ばすと、中身を煽るように飲んだ。

「ギリィ……そろそろ大丈夫かしら」

「ああ、頃合いだ」

二人が喋っているのがどこか遠くに聞こえる。
酒に酔ったのか、男は朦朧とした頭で考えた。
これで自分の苦しみが解放される……と。



「どうだった?」

かすかな音を立て閉まった扉から目を外すとファーラはギリィへと問いかけた。
表立ってその表情は変わっていない。だが、その瞳にはどこか満足げな光が宿っている。

「ああ。うまかった。久しぶりだったせいもあるかもしれないが」

「私の方もうまくいったわ。流れこんできた心の一部を私の中に取り込んだ」

自分の中に宿る不思議な力。
迷い、悩み続ける様々な人の心の揺れを感じ取りその気持ちを自分が経験したかのように置き換えることができる能力。

幼い頃は訳が判らず、流れてくるたくさんの負ともいえる感情の苦しさに泣いてばかりいたけれど
ギリィが自分の元にきてくれてやっと心の安定を保つことができるようになった。

ギリィとの始めての出会いの時、継げた言葉は今も忘れられない。

「おまえが俺を必要として呼んでいたのと同じで俺もおまえを探していた」
と。

ギリィは人と変わらない姿をしているが人間達が言う魔物と呼ばれる存在だと言う。
だが、そんなことはファーラにとって関係がなかった。
怖くなかったかと言えば嘘になる。
それでも人間の心が勝手に流れこんできてそれに恐怖していた毎日を思えば魔物といわれる未知の存在でも関係なかった。

人の心の方が自分を苦しめる魔物だったから。

一人悩んでいたことがこれからは二人で共有していける一人だけの苦しみじゃない、わかってくれるひとがいる……

異空間を開き心の痛みを持つ者を引き寄せ、そしてその心だけを糧とする。
ギリィも一人ではその心の中身を取り出すことはできなかった。
二人が揃ってこそ、初めてお互いが苦しみから解放される。

利害一致の関係。始めにあったのはそれだけだった。

でも、ファーラにとって今はそんな関係ではないから。
いつの間にか、自分の傍にいて安心できる存在。それがギリィ、になっていた。

「今宵はもう閉店ね」

ファーラはギリィの左手にそっと腕を絡ますと部屋の奥へと誘った。

繰り返される暗くて深くてそれでいて平穏な日々。
いつまで続くのかいつ終わりが来るかわからない果てのない日々。
さすれど私達は誘い、待ち続ける。

さあ、悩まないでおいでください。
ファーラの店へ。



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