悲しみと幸せの場所
「リュークエルト」
足早に進む彼の背後へと声をかけたサーシェスは、足を止めこちらを振り向いた彼の表情に
おや?と心の中で首をかしげた。
どんなに忙しい時でもいつも笑顔を絶やさない彼が、ましてや上司たる自分には余程のことがない限り、
表情を崩すなどということはしないのに今この時に限っては見ただけでもわかるほどの苛立ちが表面に浮かんでいた。
暑い季節を乗り越え、さわやかな風が吹くようになった午後のひとときに顔をほころばせはしても、
不満を抱くなどあろうはずがないのに。
今日も仕事を精力的にこなしているだろう彼が、サーシェスの顔を見てこんなにあからさまに表情を変えるのはまれだった。
「サーシェス?何か?用でしたら迅速にお願いします」
迅速に、と来たか!ますますもって珍しい。
私の言葉に反論はしても、こんな言い切るような言い方はまずしないのだが。
……とまずいな。どうも今日のあいつはピリピリきている。
これ以上時間を取るとどうでるかわからない雰囲気だ。
余計な問題が起きても困る。詮索はなしにしてさっさと済ませるのが妥当だろう。
なかなか口を開かないサーシェスにじれたのか、緊張にも似た空気がいっそう彼の周りに立ち込めかけている。
「実は今日の予定だが……」
「すみません。変えられません」
一応上司たるサーシェスが口を開くのを待ったと言った感じの言葉の遮り方だった。
「ずいぶんな返答だな」
ムッとした表情のサーシェスにリュークエルトは軽く苦笑をした。
「すみません。今日は休日だから予定は入れられるだろうと言いたいんですよね。でも今日は絶対にダメなんです」
「そう決まっていて、どうして城に?」
「俺だって今日は来たくなかったですよ。でもどうしても今日でないとできない仕事があって仕方なく。
だからこれ以上は無理です」
「おまえがそこまで言うのは初めてじゃないか?振られた私としては正当な理由を聞きたいのだが
もちろん答えてくれるだろうな」
わざとちゃかしたように言うとリュークエルトは軽くため息をついて仕方なさそうに口を開いた。
「答えなければ解放してもらえないようですね。
わかりました。俺も時間が惜しい。素直に答えますよ」
数分後、サーシェスは自分の前から消えたリュークエルトに対して目まいを感じる程の
複雑な感情に支配されていた。
どうにも自分には理解できそうにない理由のために。
「あいつもこれで世間一般、人並みになったというか。
しかし、以前なら休日だろうが喜んで仕事をしていたのに、こうも簡単に感情に振り回されてしまうとは。
結局あいつもただの人か、つまらん」
人一人の存在が彼の生活基盤さえも変えてしまう。
自分を管理過ぎるくらいのあいつに限ってそんなことはないと思っていたのに。
サーシェスは恐れにも似た感情に身震いをする。
自分もそんな風になってしまうのだろうか?自分を変えてしまうほどの感情に支配されてしまうのか?
……いいや。そんな可能性のないことなど考えたくもない。
「あいつはあいつ、私は私だ」
自分達の立場は似ていようとも、同じ感情を抱えることなどある訳がない。
サーシェスは頭を占めていた考えを振り払うように大きく息を吐くと、何事もなかったように
執務室へとゆっくり歩き出したのだった。
*
「。君をここに連れてきたかったんだ」
仕事とは離れて、もちろん上司と部下という関係も一切忘れて。
一日の半分以上の時間を自分達は一緒に過ごしている。
それなのにいろいろあって未だに外に遊びに出かけたことがなかった。
恋人として大切な時間を一緒に過ごす。
気恥ずかしい気持ちとうれしい気持ちが混じった不思議な気持ち。
恋人としての気持ちを味わいたいと望みながらも、リュークエルトの気持ちを思い
は自分から一緒に出かけようと言い出すことができなかった。
そんな時、リュークエルトが言ってくれたのだ。
今度の休暇の日に出かけよう。二人で過ごす大切な時間、絶対に一緒に来て欲しい場所があるとに。
*
「こちらに来て見てごらん」
リュークエルトに手を取られ、彼の横へと並ぶと視線を同じ方向へと向ける。
「うわぁっ」
丘の上から広がる景色。ドラグーン家の屋敷を取り囲む広大な森。
そしてその向こうには街に立ち並ぶ家々の屋根が覗いている。
森の緑と空の青。家の屋根の色がそれらに調和して夢を見ているようだった。
「ここは俺が……俺とイグニスが子供の頃よく遊びに来ていたところだ。
もちろんここは子供にとって絶好の遊び場だからね。
木に登ったり、川で遊んだり、とにかく思いつく限りに遊びまわったよ。
でも、ひそかにここから景色を眺めるのも大好きだったんだ」
そこで一端言葉を切るとリュークエルトはの肩へと腕をまわした。
肩を抱く腕に何かを決意したようにギュッと力が込められる。
どこかおびえた様子のリュークエルトをはそっと視つめるともう片方の手に自分の手を重ねた。
細かく震えるリュークエルトをは全てを包むように柔らかく微笑む。
そんなに感謝を込めた瞳で静かに見つめると、リューエルトは再び言葉を紡ぎ出した。
「だが、そんな幸せな時もすぐ終わってしまった。君も知っての通りイグニスの両親が亡くなってしまったから」
から視線を外し、悲しみを交えた瞳で屋敷をじっと捉えた。
「あの時から俺の子供でいられる時間は終わってしまったんだ。無邪気に笑って、遊んで、素直に全てを感じて。
俺の両親もイグニスの両親もいた幸せの時間。それが全てあの時を境に終わってしまったんだ。
そして俺はそれからここに来ることはなくなった。もうあんな時間は来ないことがわかっていたから」
「リューク様……」
「俺の罪は消えるものではない。決して忘れてしまっていいことでもない。
俺の罪は消えない傷だ。そして、犯してしまった過ちに対して責任を負わなくてはならないんだ」
「でもっ!イグニスさんは」
「ああ。イグニスも俺に対しての憎しみが完全に消えなくとも許してくれていると思う。
でもだからと言って忘れてしまってはいけないんだ」
自分の心の中で苦しみ抜いたリュークエルトの結論。
はこの時ほど自分が何もできないことに怒りさえも感じた。
今の自分に力がないことに胸が痛む。
「でもこんな風に考えることができるようになったのも、君のおかげなんだ」
「え……」
何もした覚えがないのに?
「君が俺を見てくれたから。俺の外側だけじゃなくて、俺自身でさえ嫌っていた俺の本質を、
俺の汚れた心をわかってくれたから」
言葉とともに私の身体が優しい腕に包み込まれる。
「君の心が癒してくれた」
耳元をかする呟きが心の中まで沁みこんで行くようだった。
「俺の幸せだった場所。そして、俺の暗黒に閉ざされていた心が決して踏み込もうとしなかった悲しみの場所。
だけど今は違う」
腕を緩め、の瞳を覗き込むと誓いを立てるかのごとく、リュークエルトは言い放った。
「苦しみから解き放たれた今、この場所は再び幸せの場所へと変わる。
俺一人じゃない。俺と、。君との幸せの場所へ。
君とこの景色を一緒に見続けたい。、君と」
哀しみさえ感じる切ない気持ち。
一度は切り捨て去ろうとした場所に自分を置いてくれた。一緒に見続けて欲しいと。
いくら本意ではないとはいえ、リュークエルトの行なったことは決して許されていい事ではないと思う。
でも彼は心の中では認めたくなかった自分のしたことを罪と認めることができた。
自分を見詰め直すことができたから、を受け入れてくれた。
だったら自分はリュークエルトが望んでくれる限り彼の傍にいたい。
彼が自分を縛るのではなく、自分が彼を求めるだけでもなく。
ただ、お互いが必要とお互いに分かり合っていける関係であればいいと心から思う。
願わくば、この広がる景色のように全てが溶け合い、当たり前に自然でありたい。
「……」
抱きしめられた自分の瞳に彼が映っていて、彼の瞳に映る自分がいつも満たされているように。
この場所では幸せしか感じない、幸せの時間がいつまでも続く場所になるように。
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