つぼみ
グランド゙に笛の音が鳴り響く。それと同時にいっせいに選手がスタートラインを切った。
時間にしてはほんの一瞬。進むにつれて横一線に並んでいた列から一人の姿が頭一つ抜け出し
の目の前でそのままゴールラインを踏んだ。
他の選手に比べると小柄な体が走り終えた充足感を伝えてくる。
それだけじゃない。まるで何かに吸い寄せられるようにはそこから目を離せなかった。
喜びを全身に表したはじけるような躍動感に溢れたその姿と光輝く笑顔が脳裏いっぱいに焼きついて。
の心が再び見事彼に陥落させられてしまった瞬間だった。
*
「先輩帰りましょう!」
最後まで目が放せずに練習を見ていたの目の前に啓人くんの顔が飛び込んできた。
不意打ちを付かれた感じで思わずうろたえてしまう。
「う、わわっ」
「先輩何やってるんですか」
だっていきなりかわいい顔がアップで来られたらびっくりするに決まってるじゃないっ。
とっさに腕を伸ばして啓人くんはぐらついた体を引き寄せてくれたけれどそれだけじゃすまなくて。
片方の腕はしっかり腰に回り、いつの間にかもう片方の腕で抱き込まれるようにされていた。
「危ないな。気をつけて、先輩」
気をつけてって言われても、こうなったのは啓人くんにも原因があると思う。
突然の身近な距離に未だに慣れることはない。いつ見ても私だけが慌てるばっかりで。
ね、啓人くん。こんなにドキドキしている私に気がついてる?
反応を見たくてやっているの?それとも無意識?
ああ、いろいろグルグルになってしまってまともに考えられない。
「あの、啓人くん。腕、えっと、離してくれる?」
「先輩どうしてそんなこと言うんですか。もちろん、駄目!ね、それより覚えています?」
耳元で囁くように言う啓人くんはその口調とは裏腹に断固とした言葉と問いかけをに返した。
くすぐる息に顔が熱くなって来るのに啓人くんは離してくれない。
そんな状態と至近距離じゃ答えられるものも答えられなくなるのに変わらぬ調子で話を続けてくる。
「まだほんの少し前のことなのにね。先輩に話しかけたのって。
先輩は最初に気付いたのは自分の方だって言うけど本当は俺の方が先だよ」
「……啓人くんの方が?」
「そう。先輩がグランドを見るようになる前から俺は先輩の帰る姿を見ていたんだ」
この道は門へと続く道になっているからたくさんの人が通って行く。
しかもそれだけじゃなくてグランドで部活をしている生徒を見ている人も少なくない。
それなのにどうして私を?
「最初に気付いたのは春、桜の花が咲いていた時期だった。
たぶん近くの桜の木から花びらが流れて来たんだと思うけど、その花びらを手に受けて
先輩、うれしそうに笑ってた。その笑顔がとても綺麗で……見惚れてしばらく動けなかった」
どこか照れたように言う啓人くんはその時を思い出しているのか自分もうれしそうに微笑んでいた。
「桜の花?そんな前から?」
確かにその時期は桜の花が綺麗でよく立ち止まって見ていたことは覚えている。
だけどグランドに目を向けるようになったのはその後のことだし、啓人くん一人に特別に目を向けるように
なったのはまだ最近のことだった。
それなのに啓人くんはたくさんいる人の中、私に気がついて私より先に見てくれていたと言うの?
「先輩に話しかけたかったけど話しかけられなかった。
桜の花を見ていた先輩はとても儚げで話しかけたら消えてしまいそうに思えたんだ。
そうじゃないってわかっていても一度思ってしまったらなかなか話しかけられなくて。
だけどこのままでいたら何も変わらない。俺がこうしている間にも他の誰かが先輩を連れて行ってしまったら
俺の前から居なくなってしまう。だから、決心した」
このまま自分の気持ちを抑えることなんてとてもできなかったんだ。
そう言う啓人くんの表情は真摯で男の人の顔をしていた。
「来年、またこの季節に桜の花が開いたら先輩のことって呼んでもいい?
俺一人だけのになってくれますか?」
「け、啓人くんっ。それって、ど、どういうっ?!」
「わかりますよね。俺の、俺だけの特別になって欲しいってこと。
俺が先輩と同じ場所に立てる時になったらその時はって呼びたい」
「ま、待って!私は……」
「自惚れだって思うかもしれないけど先輩、俺と同じ顔をしている。
俺と同じ想いを抱えているんだってわかったんだ。
駄目だよ。自分の気持ちも誤魔化しちゃ。
先輩が迷っている気持ちもわかるけれど俺はね、逃がしてあげる程優しくないですから」
私を抱いている腕にギュッと力がこもる。
逃げられないよう、答えを逃がさないよう思いっきり強く抱きしめられた。
「啓人くん、わかった。ちゃんと話すからお願い一度離して」
緊張で弾む呼吸を懸命に整えるようにしながらは力の入らない両手で抱きしめる体を押した。
「逃げない?」
「逃げないから、お願い」
消え入りそうな声で呟いた。
本当は離したくないと目の前の顔が言っている。
けれどのいっぱいいっぱいの気持ちを感じたのだろう。
そんなを名残惜しそうに軽く力をこめて抱きしめると啓人は静かに抱擁を解いた。
「桜の……桜の花が開いたら私の気持ちを言うわ」
「先輩っ」
「ごめんなさい。こんな気持ちの、こんな複雑な心の状態で素直な気持ちを言うことなんて
できそうにないの。今無理をしても逆に変なことを言ってしまいそうだから。
……絶対に言うから、お願い。桜の花が開くまで待って」
わがままを言っているのはわかっているし意気地が勇気がないのもわかっている。
でも今のままじゃ私は自分の気持ちも啓人くんの気持ちも素直に見られないから
もう少し、桜の花が私を見てくれる時期までもう少し待って。
「わかりました」
「待ってくれるの?」
「本当は嫌です。すぐにでも俺の気持ちを言いたい。先輩の答えも聞きたいけど
俺が先輩の全てを支えられるかって問われると自信を持ってはっきり答えられないから」
待ちます、と啓人くんは言ってくれた。
「ありがとう」
「桜の花が開くまで待ちます。忘れないで下さい。必ず俺の気持ちを言いますから。
その時には先輩より心も身体も大きくなって俺から目が離せないようにして見せますよ」
待っていてください。
そう言いながら微笑む啓人くんの表情は引き込まれてしまう程艶やかだった。
ありがとう。必ずこの気持ちを届けるから。約束よ、桜の木が花をつけるまで待っていて。
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